日常#62

世間がハロウィンで浮かれている中で毎年、我が家だけは違った意味で浮かれていて、それは自分と兄の合同の誕生日会が開かれるからだ。
兄の誕生日はハロウィンでそのだいたい一週間後に自分の誕生日があるので、まとめて祝ってもらう。
今回はたまたま全員がハロウィンの日に東京にいる予定が重なったので、東京駅周辺でご飯を食べようかとなった。

自分は東京の西側の住人な上に出不精なので東側に行くことはあまりなく、半年そこらぶりの東京駅でこれじゃあ名古屋に住んでた頃と変わらないなぁとおもう。
兄の誕生日プレゼントを買うために早めに東京駅について散策していたが、やはりこの街は息がしにくい。
ガードレールがなく、電線もなく、中央分離帯も緑もない。スタイリッシュで洗練された街は異様で、そこに歩く均一化された人々は人情たっぷりな町で育った自分にはナイフにすら見える。


もう3週間も前の日記を今さらになって書いていて、その間に自分はとっくに20歳を迎えて、本当ならそれについてなにか抱負のようなものを書くべき、いや、べきってのがもうよくない。この意識の中に垣間見えるように自分はまだ20歳を迎えたという認識が甘い。そして、最近全てのやる気というやる気が消え失せてしまい、軽いライターズブロックのようなものを感じている。生業じゃないけどね、物書きは。暇つぶし暇つぶし。

これまでの誕生日のことを誕生日だ! と特別になにか思ったことはなかったが、やはり十代の終わりというのはそんな自分にも誕生日に意味を見出させようとして、そんな緊張とともに11月8日(いい雄っぱいの日)を迎えたわけだが、タイムラインに流れる大量のいい雄っぱいに埋もれる自分のTwitterホームに風船が飛ぶスクリーンショットを見て、やはりああ大した事ないなと思った。

去年のものと見比べて、あ、この人去年は反応くれたけど今年はくれなかったな〜普通に気が付かなかっただけか〜と思ったり、反面、まぁさしても絡んでなかったし、目に留まらなかったか見送ったんだろうなと思ったり、まぁさらに根本的な不審みたいなの(高度な社会性フィルター)に困ったり。おすすめ欄に流れてくるような人気者の誕生日にはSM系ビデオ一本のスパンキングの回数に負けず劣らずの量のリプがつきますが、あのお礼リプってどう考えても途中で飽きてませんか??
けれどやっぱり自分の誕生日を祝ってくれるというのは嬉しいことで、さらに言えば20歳になったしお酒でもと誘ってくれたひともいて知足知足、自分にはもったいない幸せですよと噛み締めている。


そんな自分に最近恋人というものができて、さらなる幸せが押し寄せて、溺れてしまいそうになっている。あっぷあっぷ。
恋愛、とりわけ交際というものは自分にとって契約と同義で、聞いたわけではないがおそらく彼にとってもそうなのだろう、お互いの恋愛観、条件を語ると合うところが多く、合わないところも折衷案を見つけていけそうだったので、付き合おうと言った。もしこれを読んでて、ん? そんなことないよとかあったら言ってよね。
なにより素の自分でいられる人だと思ったからというのがある。

良い仕合わせには悪い仕合わせというものが付きもので、自由と責任、イケオジの渋さと加齢による身体の衰え、デカマラである矜持とデカさ故に断られる失念、天才型''裏''男性器(アナルギフテッド)を持った悦びとそれ故にヤリマンと烙印を捺される悲しみなどと同じように幸せというものには恐れがセットでついて回る。

具体的に言えば幸せとは交際のことで、恐れとは別れのことである。
付き合ったばかりから別れのことを考えるなんて不誠実ではないかと思う人はいるだろうし、自分もそうだった。
OrangestarというボカロPが数年前に結婚をしたのだが、その時に出したのが「霽れを待つ」という曲で、この曲は今自分が感じているものと似たものを歌っている。

「何も痛くなんてないから大丈夫だよ、まだ」
っていつか 君がいなくなったら
あぁ
私だけ生きていくの?

霽れを待つ

Orangestarさんは結婚をした瞬間から彼女と離れ離れになってしまうことを恐れている。
二人を別つものが何なのかは問題ではなく、人はいつかは必ず別れるものであるということを歌っていて、その恐れを今の自分は一段と理解してしまって、世を映すレンズが一段と曇ってしまったような気がする。けれど、その先で朧月のようにぼんやりと誘う恋愛という光にやはり集く自分がいて、蛾のようだなと思う。楽しいし。俗世俗世煩悩煩悩。
願はくは彼との末永い未来を。

また書きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?