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北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんと小倉の〝接点〟とは〜幻の映画「無法松の一生」、そしてシュルツ君のこと


「無法松をやっておけばよかった」

北九州とゆかりのある映画俳優、高倉健(以下健さん)=2014年に83歳で死去=は、小倉(現在の福岡県北九州市)が舞台の映画「無法松の一生」に出演する話があった。
しかし、それは結局実現しなかった。
そのことについて、健さんは自著で次のように述べている。

(1982年の主演映画)『海峡』のあと、(「八甲田山」や「海峡」監督の)森谷(司郎)さんは『無法松の一生』を一緒に撮りたいと言われたんですが、そのときいろいろな事情があって、断ったんです。

それからしばらくして、彼はってしまった。
『無法松の一生』をやっとけばよかったなあと、考えてもしようがないことを考えていた。

高倉健「あなたに褒められたくて」〜「八甲田の木」より (カッコは筆者補足)

健さんの無法松‥‥。
想像すると、何だかカッコ良すぎる気もするが、これは見てみたかった。
実現していれば、北九州のご当地映画を代表する一本になっていたことだろう。

「無法松の一生」とは

「無法松の一生」は小倉出身の作家、岩下俊作(1906−1980)が1939(昭和14)年に発表した小説「富島松五郎伝」が原作。

明治・大正の小倉を舞台に、無学で暴れん坊の(人力車をひく)車夫・松五郎(無法松)が、夫(吉岡大尉)を亡くした女性に思いを寄せる。
松五郎は、女性とその子供に献身的に尽くしながら、子供の成長を見守るが‥‥というストーリー。

映画「無法松の一生」は何度もリメイクされた。
最初のものは1943(昭和18)年公開。
監督は稲垣浩、脚本は伊丹万作(マルチな才人・伊丹十三の父)。
無法松は阪東妻三郎が演じた。
これは日本映画の名作の一つとして名高い。

無法松は戦後、三船敏郎、三國連太郎、勝新太郎ら、名だたるスターが演じた。

(映画「無法松の一生」は、こちらの記事でも紹介しています)

小倉・古船場町(ふるせんばまち)にある無法松の碑文。碑は無法松が小倉祇園太鼓をたたくことから、太鼓の形をしている。これを書いた劉寒吉(りゅう・かんきち)は小倉生まれの作家

健さんは乗り気だった

健さんに無法松を提案したのは、現在は北九州市在住の映画プロデューサー、田中壽一じゅいちさん。

田中さんは「駅 STATION」(1981)や「海峡」(1982)など、健さんの主演映画でプロデューサーを務めた。
田中さんによると、次のような経緯だったという。

  • 「海峡」の撮影時、ロケ地だった青森・竜飛岬の宿でのこと

  • 森繁久彌を、健さんと吉永小百合(3人は「海峡」の出演者)、監督の森谷司郎、それに田中さんが囲んだ

  • そこで、健さんの次回作は何にしようか、という話になった

  • すると、健さんは「寒い所での撮影が続いたから次は暖かい所でやりたい」と言った

  • 田中さんが「それなら(九州・小倉が舞台の)『無法松の一生』はどうだろう」と提案した

  • 健さんは乗り気だった

そこから次のようなキャスティングも構想されたという。

▽無法松=高倉健
▽無法松が思いを寄せる吉岡大尉夫人=吉永小百合
▽吉岡大尉=加藤剛
▽吉岡夫妻の子供=吉岡秀隆
▽地元の親分=森繁久彌
‥‥‥‥

 監督=森谷司郎
 プロデューサー=田中壽一

田中さんは、最初に映画化された伊丹万作の脚本を入手したり、
原作者・岩下俊作の遺族に映画化の了承を得たりするなど、準備に取りかかった。

ところが、間もなくして田中さんは、健さんからこの話は辞退したい旨を告げられたという。
なぜ、一度はその気になりながら、辞退したのか‥‥。
健さんの本当の胸のうちは、わからない。

健さんと小倉の縁

「無法松の一生」は、小倉が舞台。
健さんの無法松が実現しなかったのは残念だが、
健さんと小倉は、浅からぬ縁がある。

それは、健さんが中高校時代のこと。
健さんが通っていたのは、現在の福岡県立東筑とうちく高校=北九州市八幡西区(八幡は小倉の隣町)。
時代は戦後間もない頃。

健さんの母校、東筑高校=北九州市八幡西区

米軍司令官の息子がグローブをくれた

日本は戦争に敗れ、小倉にも1945(昭和20)年10月、アメリカの占領軍がやってきた。
健さんは、その司令官の息子と仲良くなったという。

健さんは東筑の親友、敷田しきたみのるさん(最高検検事などを務め、国連事務局出向。2017年に85歳で死去)と学校にボクシング部を作った(健さんはフェザー級の選手として、7戦中6勝1敗の成績だったという)。
2人は当時のことについて、雑誌の対談で次のように語り合っている。

敷田 そういえば、あのボクシング部は、剛ちゃん(健さんは本名・小田剛一)がどこからか持ってきたグローブがきっかけでできたんだけど、あのグローブはどこで手に入れたの。

高倉 小倉の米軍司令官の家によく行ってただろ。

敷田 うん、シュルツ。シュルツ。あの大佐だ。

高倉 そう、よく覚えてんな。そこに僕らより二つ年上の息子がいて、その子がグローブをくれた。

月刊Asahi1990年3月号「対談 国際派検事 ひたむき健さん わが青春と人生を語る 北九州の名門東筑の友と45年」より

「僕らはすぐ意気投合した」

健さんはシュルツ君との出会いについて、次のように述べている。

(健さんはその頃、駐留軍のMP〈憲兵〉に恐怖を感じたものの)
それでも、駐留軍の基地には遊びに行った。
ボクシングの試合がよく行われると聞いたからだ。

(中略)
そこで青い目の少年に出会った。
米駐留軍・小倉キャンプの司令官の息子、シュルツ君だった。
日本人の友だちをつくりたかったのか、彼は積極的に話しかけてきた。
年齢が近かった僕らはすぐ意気投合した。

高倉健「少年時代」〜「異国への憧れ」より
日米の若者は意気投合した

豊かなアメリカ文化に圧倒された

当時、日本はまだ貧しかった。
健さんはシュルツ君の家に遊びに行って、その豊かなアメリカ文化に圧倒された。

(シュルツ君の家は)別世界だった。
冷蔵庫や洗濯機やステレオなどの電化製品に目を奪われた。
夕食をごちそうになった。
アメリカの物質の豊かさや文化に初めて触れた。

高倉健「少年時代」〜「異国への憧れ」より
大きな冷蔵庫に家電製品‥‥アメリカの豊かさに圧倒された

健さんはアメリカへの憧れを募らせ、英語の勉強に力を入れた。

敷田 (英語の)会話力を高めよう、なんてESSも作ったね。

高倉 とにかく、アメリカという夢に対するあこがれが、あれほど英語を勉強させたんだろうね。
特に食べ物にあこがれた。基地に勤めてるやつのパスを借りて、コックの格好をして入って、オレンジジュースをたらふく飲んだ。

月刊Asahi1990年3月号「対談 国際派検事 ひたむき健さん わが青春と人生を語る 北九州の名門東筑の友と45年」より

当時のことを懐かしく思い出す

健さんがシュルツ君の家に泊まりがけで遊びに行き、翌朝帰る時のこと。
シュルツ君のお母さんが、ジャムを塗ったサンドイッチを持たせてくれた。
健さんが学校でそれを見せると、クラスの友だちから歓声が上がり、みんなで分け合って食べたという。

学校で広げたサンドイッチに歓声が上がった

映画俳優になり、ハリウッドの作品に参加するようになった時、
なぜかこのときのこと
(サンドイッチのエピソードのこと)が無性に懐かしく思い出されたことがあった。
シュルツ君は今、どうしているだろうか。
会ってみたい気持ちにかられる。

高倉健「少年時代」〜「異国への憧れ」より

健さんは「ブラック・レイン」(1989年)や「ミスター・ベースボール」(1993年)などのアメリカ映画に出演し、国際的なスターとしての地位を固めていく。
健さんが東筑時代に基礎を培った英語力が生かされたことだろう。

シュルツ君がご存命なら、これを書いている2024年現在、(健さんより二つ年上なので)95歳。
小倉で過ごした日々のこと
友達になった日本の少年・健さんのこと
‥‥覚えているだろうか。

そして、もしかすると、スクリーンを通じて健さんと再会した‥‥?
そんなことも想像してみたくなる。

(健さんが高校時代に見た米映画をこちらの記事で紹介しています)


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