前田 岳郁

まえだ・たけふみ =映画ブロガー▼古い映画、古い音楽、古い本、古い漫画が好きな、もと新…

前田 岳郁

まえだ・たけふみ =映画ブロガー▼古い映画、古い音楽、古い本、古い漫画が好きな、もと新聞記者 ▼落語は古今亭志ん生推しです▼福岡県北九州市出身

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「北九州キネマ紀行」へようこそ〜ささやかな前書き

「北九州キネマ紀行」とは 「北九州キネマ紀行」をご覧いただき、ありがとうございます。 福岡県北九州市は、九州の最北端にあります。 「北九州キネマ紀行」は、このまちでロケが行われたり、このまちと何らかの接点があったりする、主に古い日本映画やそれに関連するエピソードなどを綴っています。 わたしは北九州市の出身で、昭和生まれの一映画ファン。このまちの映画に関係する、レトロなサブカルチャー史の一端を掘り起こしてみたいと思いました。 それには二つの理由がありました。 一つは、

    • 北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんと小倉の〝接点〟とは〜幻の映画「無法松の一生」、そしてシュルツ君のこと

      「無法松をやっておけばよかった」 北九州とゆかりのある映画俳優、高倉健(以下健さん)=2014年に83歳で死去=は、小倉(現在の福岡県北九州市)が舞台の映画「無法松の一生」に出演する話があった。 しかし、それは結局実現しなかった。 そのことについて、健さんは自著で次のように述べている。 健さんの無法松‥‥。 想像すると、何だかカッコ良すぎる気もするが、これは見てみたかった。 実現していれば、北九州のご当地映画を代表する一本になっていたことだろう。 「無法松の一生」とは

      • 北九州キネマ紀行【門司港編】門司の映画人が監督した「ゴジラの逆襲」〜まちの発展は明治から始まった

        怪獣映画の金字塔の続編 怪獣映画の金字塔といえば、1954(昭和29)年公開の「ゴジラ」 (監督・本多猪四郎、特殊技術・円谷英二ら)。 大ヒットして、翌年の1955(昭和30)年に 続編「ゴジラの逆襲」が公開された。 1作目で死んだと思われていたゴジラは、生きていた。 「ゴジラの逆襲」では、怪獣アンギラスが登場し、ゴジラと対決する。 「ゴジラの逆襲」の監督は、小田基義氏(以下敬称略)。 小田は門司(現在の福岡県北九州市門司区)出身の人。 1909(明治42)年に生まれ

        • 北九州キネマ紀行【若松編】吉永小百合が若松の女性を演じた「玄海つれづれ節」は映画館への〝愛〟がにじむ

          前を向いて生きる女性を演じた 日本を代表する映画女優、吉永小百合。 彼女が「北九州(若松)の女性」を演じたのが映画「玄海つれづれ節」=1986(昭和61)年公開(監督・出目昌伸、原作・吉田兼好、脚本・笠原和夫ら)。 東映の人情コメディーだ。 吉永の長いキャリアの中でも、彼女が北九州の女性を演じたのは、この作品が唯一のはず(北九州の近くでは、筑豊が舞台の映画「青春の門」に出演)。 「玄海つれづれ節」の舞台は、九州最北端にある福岡県北九州市の若松。 吉永は、ばりばりの北九

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        • 北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんと小倉の〝接点〟とは〜幻の映画「無法松の一生」、そしてシュルツ君のこと

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          北九州キネマ紀行【小倉編】「銀河鉄道999」は小倉から旅立った〜漫画家・松本零士が乗った東京行き夜行列車

          高校時代から新聞に連載を持っていた 「銀河鉄道999」などの作品で知られる漫画家・松本零士さん(以下、敬称略)は2023(令和5)年2月13日、85歳で亡くなった。 松本は福岡県久留米市生まれ。 小学校から高校時代を現在の北九州市・小倉で過ごした。 小倉南高校の生徒だった松本は、当時すでに毎日小学生新聞で連載を持つなど、その才能を開花させ始めていた。 松本の漫画家としての〝原点〟は小倉で育まれたと言っていい。 北九州市は、松本ら数多くの漫画家を輩出した。 松本は「北九

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          北九州キネマ紀行【門司港編】戦地に赴く小林正樹監督が置いた〝遺書〟をめぐる物語

          この記事に書いていること 小林正樹(1916〜1996)という映画監督がいた。 「人間の條件」や「東京裁判」などの作品で知られる。 北海道小樽市出身の人だが、九州最北端のまち・福岡県北九州市の門司港とは、一つの〝縁〟がある。 映画「人間の條件」予告編( 約3分) その縁とは‥‥。 1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まった。 小林はその年の5月、松竹大船撮影所に入社していたが、徴兵され 1944(昭和19)年7月、戦地へ移動の途中で門司港に上陸した。 当時

          北九州キネマ紀行【門司港編】戦地に赴く小林正樹監督が置いた〝遺書〟をめぐる物語

          北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんと江利チエミが見た映画「哀愁」〜そして健さんの映画で流れた「テネシー・ワルツ」

          この記事に書いていること 北九州とゆかりのある映画俳優、高倉健(以下、健さん)は2014年11月10日、83歳で亡くなった。 健さんは1959(昭和34)年、歌手の江利チエミと結婚。 健さんは28歳、江利は22歳だった。 二人は1971(昭和46)年、離婚。 江利は1982(昭和57)年、45歳の若さで亡くなった。 二人が知り合う遥か前、高校生の健さん(高校は現在の北九州市にある東筑高校)は、アメリカの恋愛映画「哀愁」を見て感激した。 一方、歌手デビューしていた江利チ

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          北九州キネマ紀行【小倉編】黒澤明も関心を寄せた? 幻の清張映画「黒地の絵」

          小倉祇園太鼓も絡む小説「黒地の絵」 松本清張(1909〜1992)は、現在の北九州市小倉北区出身の作家。 「黒地の絵」は1958(昭和33)年に清張が発表した小説。 「黒地の絵」の舞台は戦後間もない小倉。 地元の有名なお祭り・小倉祇園太鼓もストーリーに絡む。 清張は「黒地の絵」の映画化を望んでいた。 しかし、結局、それは実現しなかった。 幻となったプロセスをたどると、あの黒澤明(映画「七人の侍」などの監督)も登場する。 「黒地の絵」が映画化されていれば、〝北九州映画

          北九州キネマ紀行【小倉編】黒澤明も関心を寄せた? 幻の清張映画「黒地の絵」

          北九州キネマ紀行【若松編】高倉健さんが学徒動員されていた地にまつわる不思議な話

          貨車から石炭を降ろす作業をさせられていた 2014年に83歳で亡くなった映画俳優、高倉健さん(以下、健さん)は、戦時中だった中学生の頃、学徒動員されていた。 健さんは当時のことを、次のように書いている。 健さんが学徒動員されていたのは、若松。 若松は九州の最北端、福岡県北九州市にあるまち。 八幡製鉄所(現日本製鉄)は当時、兵器製造の要である鉄を生産し、米軍の攻撃目標になっていた。 「湾」とあるのは、洞海湾のこと。 湾を挟んで南側に八幡製鉄所、北側に健さんたちが働かされ

          北九州キネマ紀行【若松編】高倉健さんが学徒動員されていた地にまつわる不思議な話

          北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんが玉音放送を聞いたお寺をさがして

          「8月15日」健さんは14歳だった 2014年に83歳で亡くなった映画俳優・高倉健さん(以下、健さん)は、終戦の時、14歳。 健さんは、自身の手記で、終戦を告げる玉音放送(昭和20年8月15日)を香月のお寺で聞いた、と明らかにしている。 香月は、現在の北九州市八幡西区。 しかし、お寺の名前は書かれていない。 健さんが玉音放送を聞いたという、香月のお寺とは、どこだったのか‥‥。 玉音放送は「香月のお寺」で聞いた 健さんが亡くなったあと、文藝春秋から「高倉健」というムック

          北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんが玉音放送を聞いたお寺をさがして

          北九州キネマ紀行【門司港編】昭和の喜劇王・古川ロッパが子ども時代を過ごしたまち

          数多く映画にも出演したロッパ 古川ロッパ(緑波)という喜劇役者がいた(以下、ロッパ)。 「昭和の喜劇王」とも呼ばれた。 彼は数多くの映画にも出演。 その映像のいくつかはyoutubeで見ることができる。 ロッパの姿を少しだけ紹介したく、下の映像を貼らせていただく。 出典は1946(昭和21)年公開の映画「東宝シヨウボート」だろうか(約50秒)。 ロッパは子どものころの一時期を門司で過ごした。 門司は、九州の最北端・福岡県北九州市にあるまち。 門司港は、かつて国際的な

          北九州キネマ紀行【門司港編】昭和の喜劇王・古川ロッパが子ども時代を過ごしたまち

          北九州キネマ紀行【八幡編】原節子が出演した〝幻の〟国策映画と、わたしの「戦争」

          その映画は「熱風」(昭和18年公開) 原節子という映画女優がいた。 日本映画の歴史教科書〈女優編〉で必ず名前が出る人。 よく知られているのは、小津安二郎監督の映画「晩春」(1949年)や「東京物語」(1953年)などの娘役。 原節子は2015(平成27)年に95歳で亡くなった。 亡くなったことが明らかになった時は、けっこう大きなニュースになった。 原節子は42歳だった1962(昭和37)年公開の映画(「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」)の出演を最後に女優を引退。 大スターだっただ

          北九州キネマ紀行【八幡編】原節子が出演した〝幻の〟国策映画と、わたしの「戦争」

          北九州キネマ紀行【若松編】〝東洋一の吊り橋〟の開通式をご覧あれ〜サラリーマン喜劇「社長漫遊記」

          森繁社長が若松にやってくる九州最北端の福岡県北九州市。 ここにある若松は、過去いくつも映画の舞台になってきた。 今回ご紹介するのは、そのうちの一本、1963(昭和38)年公開の「社長漫遊記」(杉江敏男監督)。 この映画は、東宝が高度経済成長時代に放った喜劇「社長シリーズ」33作品(1956〜1970)のうちの第16作にあたる。 社長は、映画やラジオ・テレビ、舞台で活躍した昭和の名優、森繁久彌。 他に「パァーッとやりましょう」が口癖で宴会好きな部長の三木のり平、実直な秘書役

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          北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんの〝初恋〟の先生は門司に健在だった?

          〝初恋〟の人は小学校の先生だった高倉健さんは、自著「あなたに褒められたくて」と「少年時代」の中で、自身の初恋について明らかにしている。 それによると、お相手は、転校した本城小学校(現在の北九州市八幡西区)の2年の時の担任の先生。 名前は、健さんの本名と同じ「小田」といい、若くて袴姿が美しい、優しい先生だった‥‥と書いている。 小2といえば、8歳か9歳のころ。 時代でいえば、昭和14年か15年ごろ。 昭和15年とすれば、太平洋戦争が始まる前の年にあたる。 好きだったのに

          北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんの〝初恋〟の先生は門司に健在だった?

          北九州キネマ紀行【八幡編】製鉄所を舞台にした異色映画「この天の虹」

          八幡製鉄所が撮影に全面協力北九州は昭和の時代、「四大工業地帯」の一つに数えられた。 それを象徴する企業の一つが八幡製鉄所(現在は日本製鉄)。 八幡製鉄所は1901(明治34)年に操業を開始した「官営八幡製鐵所」が始まりで、鉄の生産によって日本の近代化を支えた。 関連企業も集積し、八幡のまちは大変栄えた。 その八幡製鉄所を舞台に、若い職員たちの恋愛劇を描いたのが、1958(昭和33)年公開の松竹映画「この天の虹」。 この映画は八幡製鉄所の全面的な協力のもとで撮影されていて、

          北九州キネマ紀行【八幡編】製鉄所を舞台にした異色映画「この天の虹」

          北九州キネマ紀行【若松編】映画「花と龍」の作者・葦平と健さんを結んだ怪談ラジオドラマとは

          それは若松の芥川賞作家、火野葦平の「怪談宋公館」九州最北端の福岡県北九州市。 ここにあるまち、若松。 若松は数々の映画の舞台になってきた。 そのうちの一本、「花と龍」をめぐるお話。 「花と龍」の原作者は、若松出身の芥川賞作家、火野葦平(以下葦平)。 「花と龍」は、何度も映画化された。 2014年に83歳で亡くなった高倉健(以下、健さん)も、出演した一人。 健さんが出た映画は「日本侠客伝 花と龍」という。 健さんと葦平は、直接の面識はなかったと思われる。 しかし、健さんと

          北九州キネマ紀行【若松編】映画「花と龍」の作者・葦平と健さんを結んだ怪談ラジオドラマとは