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北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】健さんが玉音放送を聞いたお寺をさがして


「8月15日」健さんは14歳だった

2014年に83歳で亡くなった映画俳優・高倉健さん(以下、健さん)は、終戦の時、14歳。
健さんは、自身の手記で、終戦を告げる玉音放送(昭和20年8月15日)を香月かつきのお寺で聞いた、と明らかにしている。
香月は、現在の福岡県北九州市八幡西区。
しかし、お寺の名前は書かれていない。
健さんが玉音放送を聞いたという、香月のお寺とは、どこだったのか‥‥。

玉音放送は「香月のお寺」で聞いた

健さんが亡くなったあと、文藝春秋から「高倉健」というムック本が出た。
この本に「高倉健 最期の手記」という、健さんの文章が掲載されている。

そこには健さん自身の終戦体験がつづられている。
昭和20年8月15日は、おおよそ次のような様子だったという。

健さんはこの日、学徒動員の仕事が休みで、朝から家の近くの池で友達と遊んでいた。
すると昼ごろ、別の友達が「天皇陛下の放送があるらしいばい」と呼びに来た。

健さんたちは、放送があるというお寺に走って行った。
ラジオからは雑音だらけの声。
健さんは、何を言っているのかわからない。
周りの大人の何人かは泣いていた。

友達が「日本が戦争に負けたらしいばい」と言った。
健さん「えー、降参したとな?」

その後何度となく味わった、人生が変わる一瞬。諸行無常。この時が、初めての経験だったような気がする。
(八月十五日を十四歳、福岡県遠賀おんが香月かつきで迎えました)

高倉健「最期の手記」
「諸行無常」=仏教の根本思想で、万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ(広辞苑)

健さんは現在の福岡県中間なかま市の出身 。
香月は現在、福岡県北九州市八幡西区になっている。
(八幡西区は中間市と接している)

健さんだけでなく、多くの日本人にとって「8・15」は特別な日だった。
わたしは、健さんが玉音放送を聞いたお寺がどこなのか、知りたいと思った。
訪ねて、14歳の健さんを身近に感じたいと思った。

北九州・八幡の聖福寺と白岩池

わたしは香月を歩き、当時のことを知っていると思われる何人かの人を訪ね、話を聞いた。

何人かに尋ねた末、「ああ、そのお寺なら、あそこですよ」と教えてくれた人がいた。
そのお寺に行った。

そのお寺の近くには、池もあった。
(健さんは、お寺で玉音放送を聞く前、近くの池で遊んでいた)

その池から、そのお寺まで歩いてみた。
すると、健さんが書いているように「走って行」ける距離だった。
しかも、そのお寺は、当時健さんが住んでいたという家の近くでもあった。
(お寺を教えてくれた人は、健さんの当時の自宅の位置付近もご存じだった)

そのお寺は、現在の北九州市八幡西区上香月かみかつき聖福寺しょうふくじ

聖福寺の本堂。昭和20年8月15日、ここにラジオが置かれたのだろうか

健さんがここで玉音放送を聞く直前に遊んでいた池は、北九州市八幡西区白岩町の「白岩池しらいわいけ公園」にある白岩池。
聖福寺からは直線距離で200メートルほどしか離れていない。

聖福寺の近くにある白岩池

このお寺にたぶん間違いない。
そう確信した。
(お寺のご了解もいただき、明らかにさせていただきました)

お寺は「イラスト」とも酷似していた

健さんが玉音放送を聞いたお寺が聖福寺であることは、別のことからも確信が持てた。

それは、健さんが亡くなった後の2016年に出版された健さんの著書「少年時代」(集英社)という本。
健さんが少年時代の思い出のあれこれを綴ったエッセー集だ。

それぞれのエッセーには、イラスト(挿絵さしえ)が添えられている。
どれも健さんの少年時代をほうふつとさせる、懐かしくて温かみのある絵だ。

描いたのは、イラストレーターの唐仁原とうじんばら教久のりひささん。
(唐仁原さんは2022年に71歳で亡くなった)

「少年時代」には、健さんが玉音放送を聞いた時のことをつづった「諸行無常」という章がある。
内容は「最期の手記」とほぼ同じだが、ここに添えられた唐仁原さんのイラストを見てハッとした。
その絵は、次のようなものだ。

お寺の本堂に旧式のラジオが置かれている。
本堂の縁側や、山門に続く石畳の通路には何人かの人たちがいる。
(みな後ろ姿で、顔はよく見えない)
その人たちは肩を落として座り込んだり、帰ろうとしたりしている。
きっと玉音放送を聴いた直後なのだろう。

その中には少年たちもいる。
彼らも肩を落としたり、空を見上げたりしている。
空は高く、青い。
入道雲が浮かんでいる。

このお寺の本堂や、山門に続く石畳などの位置関係は、聖福寺とそっくりではないか。

唐仁原さんは、おそらくこのイラストを想像で描いたのではない。
きっと、現地に来て確かめるか、写真を参考にするかして、絵筆をとったに違いない。
そう思えた。

聖福寺の本堂(中央奥)からは山門に続く石畳の道が延びる

健さんと映画「ホタル」

健さんは玉音放送を聞いた時のことについて、「少年時代」の「諸行無常」の章で次のように書いている。

「日本が戦争に負けたらしいばい」
と友だちが言った。
「えー、降参したとな?」
抜けるような青空を見上げ、真っ先に想った。
兵隊となっていた兄は無事なのか。
その後、何度となく味わった人生が変わる一瞬。
諸行無常。
この時が初めての経験だったような気がする。

高倉健「少年時代」

健さんの「8月15日」を思う時、わたしは健さん主演の一本の映画が思い浮かぶ。
それは、健さんが70歳だった2001年公開の「ホタル」(降旗康男監督)。

映画「ホタル」は、こんな話。
健さんは鹿児島の漁師で、特攻隊の生き残りという役(役名は「山岡」)。
山岡は昭和が終わった頃、鹿児島・知覧でかつて食堂を営み、特攻隊員に親しまれていた女性(奈良岡朋子)から、あることを頼まれる。
それは、山岡の上官だった金山少尉の遺品を、金山少尉の故郷である韓国に届けてほしい、というもの。
山岡は、腎臓を患っている妻(田中裕子)と渡韓する‥‥。

忘れてはいけないこと

健さんは映画「ホタル」について、映画の公開時、インタビューに次のように答えている。

−−(「ホタル」制作の)きっかけは、TV『知ってるつもり!』で、戦争中、軍指定の食堂で特攻隊員の世話をしていた〝知覧の母〟鳥濱トメさんのドキュメントを見たことだそうですが。

高倉 全くあの番組でしたね。見てから、企画の坂上(順)ちゃんたちとお茶を飲んで話しているときに、「世紀が変わる節目の時期にやらなくてはならないものが、あるんじゃないのかな」ということを言ったんですよ。そうしたら皆が「じゃあ、知覧
(の特攻平和会館)に行ってみますか」ということになって。

(中略)

−−すべてをやり終えた今、どのようなお気持ちでしょうか。

高倉 映画を観た人がそれぞれ何かを感じてくれたら、それで充分です。ただ、特攻の人たちがいた。こういう時代があったということは、忘れてはいけないと思うんですよ。
(以下略)

「キネマ旬報」2001年6月上旬号 / インタビュアーは金澤誠氏

健さんは「世紀が変わる節目の時期にやらなくてはならないものが、あるんじゃないのかな」と言っている。
健さんにそう言わせた〝原点〟は、健さんが香月で迎えた「8月15日」にあった気がしてならない。

健さんがご存命なら、これを書いている2023年は92歳。
健さん。
いまの日本や世界は、どのように見えていますか。


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