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モルカーが終わって、人が咀嚼できる情報量について考えた話

PUI PUI モルカーが終わってしまった。

たった12話で終わってしまった。アレ終わることがあるのかと思った。どこかでモルカーは永遠に続くと思っていた。世界の車窓からに比肩するポテンシャルを持っていると思っていた。終わってしまった。それも12話という短い期間で。

僕の地域ではテレビ東京が映らないので、モルカーが引き起こしたこの一連の熱波を僕は少し遠い場所から見ていた。僕は見逃し配信を見るしかなく、当然のように公式Twitterをフォローした。

話は変わるんだけど、僕はモルモットを飼ったことがあって、あの可愛さを実感として感じることができる。本当にPUI PUI言うし、ポップコーンジャンプ(モルモットがテンション上がったときに飛び上がること)はとてもかわいい。

もともと妻がモルモット好きだったので、モルカーは僕らの家族全体にとって大流行になるのは必定だった。老いも若きも火曜日はYouTubeでモルカーを見るようになった。

僕と妻はLINEでも話すけど何かを残したいときはSlackを使うようにしていて、火曜日になってモルカーの公式配信に見逃し配信のURLが載るたびに、僕はそのTwitterのURLをSlackに共有した。妻はTwitterを見るという習慣というか文化がなかったためだった。

それが5話くらいで死ぬほど面倒になった。

というか自分で情報くらい取りに行って欲しい。けれどそういうことを妻はしない。仕方ないので、というか、Slackを使っているのであれば、そのへんは簡単に自動化ができる。SlackのTwitterアプリを使えばいい。

僕はモルカーの公式TwitterをSlackに流れるように設定した。そうすると二人がいるチャンネルにモルカーの各種情報が書かれたツイートが流れ、きらびやかになり、火曜日には見逃し配信のURLが提供される。僕は満足した。

しばらく経って、妻に聞いた。「モルカーいいよね。今回の見た?」僕は当然妻もSlackを通じて見ているものかと思っていたので、その返答に驚いた。「見てない。なんかよぶんな情報まで流れるようになっちゃったから見なくなっちゃった」

そんなバカな……。

モルカーのツイートは広告みたいな情報も含めて一日に三回くらいだったと思う。そのノイズが入るだけで、目がスリップして好きなものも見なくなってしまうものなのか……。

***

そのあと、冷静になってよくよく考えてみた。モルカーも最終回を迎えてしまったのだし。そういうものなのかもしれないな、と今は思う。

「タイムライン」というものにネットをしていると非常に慣れる。

自分にとって必要なもの不要なもの関係なく、情報の奔流があって、Twitterをやっている人であればフォロー数100とか200なんて当たり前の世界だし、それはたぶん気をつけている人じゃないと際限なく伸びていく。

Twitterであれば、その情報のストリームの中で指数的にRTやらLIKEが表示されたりする。もうその辺に行くと、少なくとも僕の場合は、出会い頭の意外性を楽しめるものはほとんどないので、表示をしない設定にしてある。好きな人の好きなものを、自分も好きとは限らない。

それからそれにプラスして全くつながりのない広告が表示されたりする。ときどきどこの趣味を切り取ったか分からない不快なものまで入る。それはもう明確に「嫌い」の域に入る。

TwitterだけでそれであとはSNS全般、RSSでの情報収集など、それからもちろんSlackやLINEも含む、とにかくネットに触れる現代人の目の前に常々置いてあるタイムラインには、轟々と情報が流れ落ちていく。

そういうものだ、と思っていないと、自分で取得しているタイムラインであっても実は7割くらいはノイズになる。それがたまらなく嫌で見たくなくなっちゃう人も、あるいは実は多いのかもしれない。

現代の脳内フィルタリング能力、あるいは忘却能力というのは、タイムラインを取捨選択するためにどうしても必要になっているのだと思う。それが働かないと、タイムラインに砂金が混じっていても見る気が失せてしまうのだ。

***

ところでツイートするときに「これって前にも同じことツイートしなかったっけ?」と不安になることがある。そのたびに、いつも「誰も自分の1日以上前のツイートなんて覚えていまい」と思い直す。

フォローしている人誰でもいいんで、その人が一週間前、どんなことをツイートしていたか思い出せるだろうか。自分は全然自信がない。というかごめん、たぶん覚えてない。

妻は名探偵コナンが好きで、Netflixに来たコナンをずっと見ている。何度も見たであろうそのシーンを、何度も見ている。

自分が大切だ、好きだ、と思っているから、のべつ幕なしに関連する情報をタイムラインとして蒐集するのだ、そしてほとんどは忘れ去ってしまっているのだ、というありがちなムーブが、本当に「好き」を表している行動なのだろうか、ちょっと雑すぎやしないだろうかと、妻&モルカーを通してハッとしてしまった、というお話。

すでに誰かが語っているとは思うけれど、モルカーのあの1話あたりの心地よい短さも、その情報量に関連する魅力がありそうだなと思うのであった。さすがモルカー。

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