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感情をコントロールすることは不誠実なのか

「感情をコントロールすることは不誠実ではないか?」って聞かれた。

積極的に話すテーマではなかったけど、複数の友人から同じような話題が出て、ははぁ、なるほど、ふーむ、一考だな、と思ったので書きながらまとめる。

ありのままに生きるマインドが隆盛だし、実際のところそういう生き方がそれなりにできるようになったのがいい社会の証拠だとも思うんだけど、そんな中で感情をどう表現するのが適切なのか、よく考えるようになった。

めちゃくちゃ雑に大きく分けて、感情はアンコントローラブルな奔流で表現するなんて胡散臭いと思ってるグループと、感情は放流であって全力でコントロールする必要があると思ってるグループがあるように思う。

で、便宜上、前者を「奔流型」、後者を「放流型」とこの記事では呼ぶけれど、どちらにせよ、「感情をコントロールすること」を不誠実だと感じる人が一定数いるようだ。

「奔流型」は喜びであれ、怒りであれ、快であれ不快であれ、感情は自分を構成する唯一無二の核であって、社会や組織や人間関係によって捻じ曲げられることを嫌い、自分の感情を捻じ曲げざるをえない局面に遭遇すると、それは迂回した分だけ誠実さが損なわれたと思っている。

ただ一方で、本人はこの感情の奔流で損をしているんじゃないかと思ったりもしている。他人との衝突も多いし、理解されないことも多いし、精神が摩耗したりすることも多いし、みたいなことで、アンガーマネジメントを学んでみたりして、でもやっぱりそれは誠実じゃないような気がしてしまうようだ。

一方で、僕が知っている「放流型」な方々はアンガーマネジメントなんて学ばない。いや、アンガーマネジメントを「怒らない方法」として接するとはない。そうすると「そーやんな」と思うだけで実践済みだったりするので別に得心したりしない。

放流型は常に感情をコントロールしている。そのことを誠実とは思わないまでも、人間社会を生きるにあたって仕方がないことだと思っていたりする。

嫌なことが起こっても基本的に我慢するし、人前でそれほど羽目を外すことはないし、喜びもあらわにすることも少ないし、怒りなんてもってのほかで、実は適切な怒り方も忘れてしまっていたりする。

そういう意味で「ちゃんと怒るための方法」っていう意味のアンガーマネジメントに触れたりすると、「ムリムリ怒るなんて無理」って思ってしまう。そしてそういう自分をどこかで、感情の発露が下手だと感じて、自分って嘘っぽいなぁ、不誠実だなぁなんて思ったりする。

つまりなぜか双方とも「感情をコントロールするなんて不誠実だ」と思っていて、疲弊してしまって、冒頭の命題にたどり着いたりするようだ。


で、自分はどっちかっていうと放流型だと思う。

日常生活で感情をコントロールできる方がかっこよくて過ごしやすいだろうと思ってるし、大義というか目的のためには感情を殺してなんぼだと思っているし、それを見失うことこそ不誠実なことだと思う。

ただ、感情をコントロールすることにエネルギーを使って疲れることはあるかとか、なんだかあんまりそういうことはない。それから感情のコントロールに罪を感じたりはしない。

まー、一晩寝るとだいたいの、特にネガティブな感情を保つのが難しくなってきた、みたいな鈍感力はあるんだろうけど、それよりも「そうするのが自分だ」と思ってる節はある。

要するに、

日常生活で感情をコントロールできる方がかっこよくて過ごしやすいだろうと思ってるし、大義というか目的のためには感情を殺してなんぼだと思っているし、それを見失うことこそ不誠実なことだと思う。

これをするのが今のところ、最も自然な自分だと思ってる。感情をコントロールすること自体が自分らしいと思ってる。

なので感情の逆むけみたいな、逆流みたいなものは生まれないし、こうできないならば自分っぽくないので、これで損しても仕方ないといまのところは思ってる。

何が言いたいかというと、「奔流型」にせよ、「放流型」にせよ、不誠実と感じるのは感情をコントロールすること自体ではなくて、感情をコントロールすまいとする自分と、しようとする自分の二律背反性をふと客観的に見たときに不誠実だと思ってしまうんじゃないか、ということ。

それが自分だ、This is meだ、自分はそれでよしだ、それも含めてありのままだと、自分で選択することが大切で、本来誰にも見えない自分内部の流量操作を少なくとも不誠実だと後ろ指さされることはないし、その見えない枷を他人に課すこともないんじゃないかということ。

なので、ここまで考えたことで冒頭の「感情をコントロールすることは不誠実ではないか?」という問いには、「それも選択のうちで不誠実ではないし、そういう考えは全員が辛くなるよ」と返答することになる。

大切なのは、どちらにせよ、自分はそれでオッケと思えるための、選択できる余裕とか、その型で成功した実体験とか、勝ちパターンとかだなぁと思う。


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余談として書きたいことが2つあって、

本来誰にも見えない自分内部の流量操作を少なくとも不誠実だと後ろ指さされることはないし、

とは書いたものの、不誠実は言動で人に透けて見える。感情のコントロールが不誠実ではなく、言動の選択で人は不誠実になりえると思ってるので、自戒の意味で気をつけたい。

もう1つは、人間関係の中で心理的安全性があればこの感情のコントロールは不要(≒コントロールしようとすることが良い人間関係を構築する上で不誠実になるんじゃないか)という意見がありそうだなって思う。

それはケースバイケースにはなりそうとは思ってて、「対人関係上のリスクを取りにいったとしても安心できる状態」であれば、奔流のままに感情を発露させても、まぁ、受け取ってくれるのかもしれないし、その場合であれば、むき身の刀身の方がトントントンと人間関係の改善には役に立つこともありそう。

ただ、そもそもその「むき身の感情」で心理的安全性を構築するは難しいだろうなぁと思ってて、感情って快か不快かを伝えるのは容易だけれど、それ以上の機微を伝えるには表現が必要になるし、だいたい不快の方が強烈に伝わりやすくて、その状態で相互理解するには、偶発的でそれなりの修羅場をくぐり抜ける必要があると思っているため。

なので、快を伝えるためにはどストレートの方がいいと思うことは多いから、それこそ使い分けたりするものの、今のところは「放流型」の立場を取る。

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