Mリーガーが麻雀道と言い出す前に2

こんなNoteが話題になった。

情緒的で冗長ではあるけれど、極めて善良で、そしておそらく優しい人の書いた文章なんだろうなとは思った。逆に言うと、だからこそ怖いなと思った。

まず傍論から入ろう

かつて、将棋の指し手はその棋士の人格や人生経験、美学や価値観を投影しているとされていた。だから棋士は遊びも含めていろいろな経験をしなければならないし、そういった人生経験の無い者は、棋士の指した手を批判できないという風潮があった。あった、というか大半だった。それが「王将」に描かれた浪花節的心象風景でもあるし、銀座で飲むことが棋士にとっても「芸の肥やし」と言われていたのだ。

そこに、いわゆる「55年組」と呼ばれる棋士たちが入り、棋界を席巻した。彼らは旧態依然としていた将棋界に風穴を開け、旧い価値観を拒み、タイトルを次々に取っていった。

例えば島は、それまで当然とされていたタイトル戦の和装を拒み、第1期の竜王戦においてスーツで通した。高橋は、タイトル戦で敗れた後、参加するのは当然と暗黙のうちに思われていた打ち上げを断り、対局後すぐに帰ってちょっとした話題になった。

それを良しとしない人は当然いたし、もちろんかなりの批判も浴びた。

曰く、伝統文化たる将棋の最高峰の舞台(どこかで聞いた言葉だ)であるタイトル戦に、棋士の正装である和服を着用しないとは何事か。曰く、スポンサーである主催社が開催する打ち上げに、棋士が参加しないとは何事か。

そんな批判だ。そしてそれを気にしない彼らは、やがて「新人類棋士」と名付けられた。

それをさらに進めて「将棋に人生経験は不要だ、将棋と人格とは切り離して考えるべきだ」と断言したのが羽生善治と羽生世代の棋士たちだ。

棋士は指した手の善悪、対局の結果で評価されるべきであり、人格やら人生経験、個人の間の因縁やドラマなどは評価の要素に入れられるべきではない、羽生は、羽生世代は終始そういう価値観で戦ってきた。

タイトル戦と和服の着用や打ち上げなどの宴席への参加は、ある意味においてはスポンサー獲得のために重要なブランディングや接遇でもあるから、一概に新人類が正しいと言うこともできない。実際、現代に至っても、タイトル戦でスーツを着た永瀬はかなりの批判を浴びている。

しかし、いずれにしても、将棋界は、その変遷を経て、棋士の価値は指した手で決まるという共通認識を持つようになったと言っていい。そしてそれでも将棋においてドラマが生まれることを我々は既に知っている。

麻雀界はどうだろう

麻雀は、将棋よりも正解を求めにくい。善悪不明の領域が大きすぎて、いわゆる「これも一局」的な選択が多い。

がしかし、それでも少しずつではあるけれど、損得は明らかになってきた。研究者による数学的、統計的手法の活用、AIの進化などで、ずいぶん明らかになってきた部分もある。

Mリーグという舞台で、明らかに損な選択を重ねたり、意図の不明な選択をすれば、それはそのままその打ち手の評価につながっていく。

尤も、打った手だけで評価されるかと言えばそうではない。人格や人生経験などは評価する要素には含まれないだろうが、その舞台に立つ上で、その選手がどのような準備を行い、どのような鍛錬をし、どのように対局したかは当然評価の要素に入ってくる。

それが不足している、と思われれば批判されることもあるだろう。対局ルールを失念して「飛びありでしたね笑」と発言すれば批判されないわけがない。

前にも書いたけれど、エラーは付き物だ。野球でもサッカーでも将棋でもエラーは絶対に起きる。けれど、それがドラマの一つ、エンタメの一つだと思ってもらえるのは、その場にいる選手がそのために膨大な努力を積み重ねていることを人々が知っているからだ。

それが不足してエラーが起きれば必ず批判する人は現れる。当たり前ではないか。鍛錬不足の人間が起こすエラーは見るに堪えない放送事故だ。

多様性ってなんだ

僕は批判するのが正義だと言っているのではない。同情的な見方をする人だっていてもいい。批判してはならない、素人は黙っているべきだという風潮に賛同できないだけだ。それはあまりにもナイーブすぎる。

先日、朝倉が切ったドラの2m切りの是非、白鳥が聴牌宣言して続行したことの是非で、実に多くの議論が生まれた。もしかしたら、中には取るに足らない誹謗中傷もあったかもしれない。けれど、その自由闊達な議論こそが、麻雀界にとって価値があると僕は思う。

神格化して、素人は黙っているのがいい、と思う人がいてもいいんだけど、誹謗中傷をするような言説、人格批判にしかなっていないような立論をなくしていこうとするためのNoteではなく、議論に参加できる人間をオーソライズする、資格を与えるために書かれた文章であることが残念だなと思う。

一ファンが書いたに過ぎない文章だけれど、批判された本人が拡散を試みているなら、それは看過できない。馬鹿言っちゃいけない。

批判と嫌いはイコールではない

残念ながら、僕自身にはMリーガーの打った手全てについて、当不当を論じるだけの知見はない。でも、僕から見ても損なんじゃないのという打牌は当然あるし、それが稽古不足、準備不足、鍛錬不足だと思えば批判するかもしれない。

でもそれは僕がその対象のプレーヤーを嫌いだからではない。もちろん貶めるためでもない。僕は二階堂姉妹がやっていた雀荘に二階堂姉妹が全く顔を出さないことや格闘倶楽部の代打ち事件を知って、あまり信用できないなと思った口だけれど、だから批判しているわけではない。(というか僕は彼女の打牌を批判してないし、麻雀プロの打牌について議論する気もあまりない)

最高峰の舞台だと言うなら、もっといい対局を見せろ、もっと俺を楽しませろ、そう言う権利が誰にでもある。その場に立つことに、尋常ではないプレッシャーがあることを、僕は理解し、尊敬し、ある一面においては同情もするけれど、それでもその場に立つならば、いい対局を見せることに全力で準備し、鍛錬し、全精力を傾けるべきだと思う。それが不足していると多くの人に受け取られるなら、そのことを恥じなければならないと思う。

賞賛と批判はワンセットだ。いいところを見つけてほめようと思ったときには、必ずその対象を批判的な目で見る。批判的な目で見なければ賞賛はできない。必然的に、悪いところも見えてくる。それを口にするかしないかだけが違う。

僕は今の麻雀プロが、麻雀というゲームを突き詰めている求道者だとは全く思わないけれど、仮に求道者だとしても、批判しちゃいけないなんてことはない。賞賛だけが口にしていいもので、批判を口にしてはならないなんてことは絶対にない。議論の俎上に乗せて、思う存分論じればいい。

僕が若かりし頃、頻繁に見ていた麻雀プロの対局で、彼らは麻雀の一打一打に魂を込めていなかったか。否だ。僕は後ろで見ていて、その想いに、決意に、覚悟に心打たれたことが何度もある。競技麻雀の対局を現地で見るのは立ちっぱなしになってかなり消耗するのだけれど、それでも彼らの内心は見ている者に必ず伝わると僕は思う。

Mリーガーだってそうだろう。僕はそれを疑うつもりはない。だから、画面越しにそれに心打たれる人がいても不思議ではないし、それを尊いものだ、守らなければならないと思う人がいてもいいと思う。その感情と、もっといいものを求めたい、こんなもんじゃ満足できないという感情は等価値なだけだ。

的外れな批判をすれば、恥をかくのは当人だ。的外れな批判に対して反論してもいいだろう。多井あたりは打牌についてはかなり踏み込んで話をしているし、僕はそれでいいと思っている。白黒つかないことは後世に委ねることももちろんあるだろう。でも自由な議論がなければ永久に前に進まない。

麻雀プロに敬意を。同時に、名もなき無数のプレーヤーにも。

麻雀プロがかつて行っていた研究はどれだけ麻雀を前に進めたか、そう振り返ると、時々悲しくなることがある。前述したように、僕は彼らをかなり間近で見ていたし、今でもプレーヤーとして尊敬している。でも、彼らが溢れるばかりの情熱を持ち、毎日のように魂を込めて対局を重ね、議論しあっても、麻雀プロは麻雀の戦術をほとんど進歩させられなかった。

もしかしたら、それは彼らの中にだけ、自家薬籠中のものとして存在していたのかもしれない。でも、彼らの「研究」はとつげき東北以後の研究者によって、そしてネット麻雀の牌譜保存機能とその分析によって、一瞬で置き去りにされた。現代の麻雀プロが、戦術研究において、研究者の研究結果を全く無視しているということはまずあるまい。

では麻雀プロと研究者だけが麻雀を論じていればそれでいいのか。足りるのか。そうではあるまい。

例えば天鳳では毎日数万局の対戦が行われている。鳳凰卓に限っても数千ではきくまい。その彼らが、自分自身が「最善だと考える選択」を繰り返していくからこそ、研究者は鳳凰卓のデータを活用することができる。AIはラーニングできる。全員がランダムに選んだ対局を研究しても、AIはたぶんどこにも辿りつけない。

ではその名もなきプレーヤーたちは、自由な議論無くしてどうやって最善を決めるのだろう。自分たちと同等以上の実力があるとされるプレーヤーの対局を見て、ああだこうだと議論することを禁じてどうなるのだろう。

NAGAやすぱふぇにに鳳凰卓の牌譜を使わせずに、一般卓の牌譜だけを使わせて対戦させていたら、あるいはAIだけで対戦させていたら、麻雀の戦術は進歩するのだろうか。

内部で権威付けされた人だけに発言を認め、自分たちだけでいじくり回していたらどうなるだろう。おそらく「発言権の免状」が発売される。発言だけできる人、本を発売できる人とグレードが分かれる。もしかしたら「戦術」の名を著作に冠することができるかできないかまでグレードが細分化されるかもしれない。そして「権利はないけれどこっそり発言できる闇掲示板」が生まれ、最後に宗教改革や比叡山の焼き討ちが起きるだろう。

それは麻雀界の進歩なのだろうか?

何度でも言うけれど、批判はあっていいのだ。プロは、しっかり準備したかを問われ、鍛錬してきたかを見られ、緩みがないかを判定されるべきなのだ。同時に、ファンは誹謗中傷や人格否定に対して、そのプロを守り戦うべきなのだ。

もちろん、議論が面倒なら黙殺してもいい。黙って結果を出す、一つ一つの批判を相手にしない、という選択は別にそんなに誤っていない。封じ込める必要はないだけだ。ただ、それだけの話だ。

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