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瞑想とは 〜 Osho, Eighty Four Thousand Poems 〜


瞑想とは、

自分自身の心を見守る単純なプロセスだ。

心と闘わずに、

コントロールしようともせずに、

ただそこに、
選ぶことなく見ている者としてとどまる。

何が通り過ぎていこうとも、賛成か反対かという先入観なしに、あなたはただそれに気づいている。

あなたはそれをとやかく言わない。

これは私の心に浮かんではならないとか、
これは醜悪な考えであり、
これはとても素晴らしく高潔な考えだとか。

あなたは判断するべきではない。

判断せずにいなければならない。

判断した瞬間に、
あなたは瞑想を失うからだ。

あなたは一体化してしまう。

あなたは友人になるか敵になるかのどちらかだ。

あなたは関係性を作りあげてしまう。


瞑想とは、

自分の思考のプロセスと関わらずにいることだ。

まったく関わらず、冷静で、何が通り過ぎていようとも穏やかに見守る。

すると、奇跡が起こる――

通り過ぎていく思考がますます少なくなっていくことに、

人はゆっくり、ゆっくりと気づくようになる。

あなたが油断しないようになればなるほど、過ぎていく思考は少なくなる。

油断すればするほど、より多くの思考が過ぎていく。

まるで思考の通行量は自分の気づきによって決まるかのようだ。

あなたが完全に気づいているとき、

たとえ一瞬であっても、すべての思考が止まる。

即座に、突然の停止がある。

そして道路は空っぽで、往来はない。

その瞬間が瞑想だ。

ゆっくりゆっくりと、これらの瞬間がさらに多くやって来るようになる。
これら空っぽの空間が何度も何度もやって来て、より長くとどまる。

そして、あなたは努力しなくても、

これらの空っぽの空間に楽に入って行けるようになる。

だから、そうしたいときはいつでも

努力せずにこれらの空っぽの空間に入っていける。

それらは爽やかで、活気を取り戻してくれる。

そしてそれらが、自分は誰なのかをあなたに気づかせてくれる。

心から解放されれば

あなたは自分に関するあらゆる考え方から解放される。

もう、あなたはどのような先入観も抱かずに、自分は誰なのかを見ることができる。

そして、自分自身を知ることは、知る価値のあるすべてを知ることだ。

そして、自分を知りそこなうことは、すべてを逃すことだ。


ある人は世界のあらゆることを知っているかもしれないが、

自分自身を知らなければ、まったく何も知らないのと同じだ。

その人は歩く百科事典にすぎない。

気づきのない自由は、空虚な概念にすぎない。

中身は何もない。

気づいていないのに、ほんとうに自由であることなどありえない。
なぜなら、あなたの無意識があなたを支配しつづけるからだ。

あなたの無意識が陰であなたを操りつづける。

自分は自由だとあなたは思うかもしれない。
信じるかもしれないが、あなたは自由ではない。
あなたは自然の力、盲目的な力の犠牲者にすぎない。

だから、人びとにはふたつのタイプがある。大多数は伝統、社会、国家に従う。

正統派の人たち、因習的な人たち。

体制に順応する人たち――彼らは群衆に従う。

彼らは自由ではない。

次に、少数の反逆心を持った人たちがいる。
脱落者、自由奔放な人、アーティスト、画家、音楽家、詩人たち…
彼らは、自分たちは自由に生きていると思う。
だが、そう思うだけだ。
伝統に逆らうだけで自由になるわけではない。

あなたはまだ生まれもった本能の支配下にある。

あなたは性欲、強欲、野心に乗っ取られている。

そして、あなたはこれらのものごとの主人ではない。

あなたは奴隷なのだ。

私が自由は気づきを通してのみ可能だと言うのは、そのためだ。

自分の無意識を意識に変容させないかぎり、自由はない。

そしてそこが、

ごくわずかの人たちしかなし得なかったところだ――
イエスのような人、老子のような人、ゾロアスターのような人、仏陀のような人…

指で数えられるくらいの ごくわずかな人たち。

彼らは実際に自由に生きた。

というのも、彼らは気づきをもとに生きたからだ。

それが探究者一人ひとりのワークでなければならない――

もっともっと気づきを創り出すこと。

そうすれば自由はおのずとやって来る。

自由とは、気づきという花の芳香なのだ。


Osho, Eighty Four Thousand Poems より抜粋


#瞑想 #osho #ヴィパッサナー

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