三浦仙三郎「改醸法実践録」と近代日本の酒造り(前)

※三浦仙三郎著「改醸法実践録」のコピーは 中乗さん@kisonoumasake に頂きました。貴重な資料を頂きありがとうございます。

勤め先の酒蔵は、超軟水と分類される仕込み水を使用しています。そのため教科書的な造りに比べると、軟らかい水にあわせたアレンジが加わっており、そのアレンジは同じく軟水が多い広島の酒造りから影響を受けている部分が多いそうです。
多少酒造史をかじっていると、広島の酒造りと言えば三浦仙三郎の「百試千改」とか「軟水醸造法」というキーワードがまず思いつきます。しかし、言葉だけは聞いたことあるけど、三浦仙三郎の酒造りについて僕は何も具体的に知らなかったので、前々から「改醸法実践録」を読んでみたいな、とは思っていました。
そんな折、Twitterを見ていたら、たまたま中乗さん@kisonoumasakeが資料のコピーの画像を上げているのを見かけて、その資料の入手先を訊ねた所、大変ありがたいことにそのコピーを送って貰えることになりました。

この手の資料は、書かれた時代背景の事を理解してないと本当の意味ではその価値が分からないと思ったので、とりあえず蔵書にあった近代酒造史関係の本(「日本酒の近現代史」「近代日本の酒づくり」「日本酒の来た道」「灘の酒用語集」)などを読み返しました。あと、他に何か読んどくべき資料とかあるかな、と思ってネットで検索してみたら、そのものズバリの本がヒットしました。
吟醸酒を創った男: 「百試千改」の記録 https://amzn.asia/d/6IGeNqQ
この本を今まで読んだことなかったのはまさに痛恨・不覚というか、僕がやろうとしていたことを僕よりもはるかに入念かつ熱意をもってやってくれている本です。
三浦仙三郎の生涯をたどりながら、その経歴や当時出版されていた醸造書、交友関係などを背景に、三浦仙三郎が行った酒造技術の改革が描かれています。
明治時代の醸造書や、醸造試験所設立前後の資料を読み込んでいる上に、監修があの秋山裕一先生ということで、醸造関係の記述も正確で非の打ち所がありません。
ということで、三浦仙三郎の業績や酒造りに関して詳しく知りたい方は、この本を読んだ方が早いとは思います。ただ、この本の中には(三浦仙三郎の業績とは直接関係ないからか)記述されていない話や、「改醸法実践録」を僕が実際に読んでみて思った感想などもメモがわりに残したいので、この場で書いておきます。
資料の読み込み不足、記憶違い、解釈間違いの多い乱文ですが、どうかご容赦を…

江戸~明治、酒造政策の大転換

清酒の原料である米は、日本人にとって最も重要な主食でもあります。そのため、酒を造ることは主食である米を失う事を意味します。
江戸時代の酒造政策は、主に米価の安定を目的として行われていたと言っても過言ではないでしょう。
江戸時代の徴税システムは米価を基として計算されていたので、為政者にとって米の生産量は重要でした。
新田開発や技術革新によって領内の米の生産量を増やすことは、短期的にみると(現代人の感覚からすれば)お金を刷るようなものです。だから、戦国時代が治まると各地の封建領主たちはこぞって米の生産量拡大へと血道を上げました。
その結果、江戸時代が始まって百年ほどの間に米の生産量は飛躍的に増加しましたが、皮肉なことにその事が逆に封建領主たちの懐事情を苦しめる事となります。
米の生産量が増す事で、米の通貨としての交換価値が低減される一種のインフレ現象が起こり、徴税対象を米と規定していた封建領主たちの実質的な収入が減少することになります。
江戸時代に貨幣経済が発展した事で、さらに米の価値が(相対的に)減少し、米本位制で徴税してそこから年俸を貰っていた武士達の困窮が深まって行きます。

清酒産業の急速な発達は、江戸時代初期に米の生産量が増えたことにより促進された面が大きいと思います。そもそも米は貴重品だったので、それを酒に変えることは贅沢以外の何者でもありません。室町以前の清酒は貴族や上層武士など上流階級のための飲み物でした。
しかし、米の生産量が増えたことで、余剰な米が生まれ、それを使って酒の大量生産を行う事が可能になりました。米を酒に変えると付加価値がつきますし、輸送も容易になります。清酒の生産量が増えることで価格も下がり、庶民でも酒を楽しめるようになりました。

米の用途が増えることは、低減し続ける米価を食い止める効果も認められていたようです。そのため、米が豊作で米価が低下した時には「勝手造り令」と言ったようなものが出されて一種の酒造促進政策のようなものがとられたりしてました。
ただし、江戸時代の酒造政策は統制を基本にはしてました。米は通貨であると同時に主食でもあるので、米の値段が上がりすぎるとそれはそれで消費者にとって困った事にもなります。
また、江戸時代の新田開発はかなり無理をして進められた側面もあり、それまでは避けられていた洪水多発地帯や、冷害が多くてリスクの高い冷涼地域、刈草や落ち葉を肥料として使うために温存されていた山地などにも開発が入った為に、いざ気象災害が起こった場合に脆弱な生産体制になっていました。
飢饉が起こった場合には当然酒造りどころでは無いので、幕府は酒株制度といって製造量に上限を定める事で酒造の統制を図ろうとしていました(ただし、その統制に実効性があったかは微妙な所ですが)。

政策によって突然統制の緩急が変化することによって、個々の酒蔵の経営は浮き沈み大きいハイリスクな商売だったようですが、酒造技術・生産量・輸送技術などは順調に伸びていき、江戸時代を通じて酒造産業は機械力に頼らない産業としては異例の発展を遂げました。

明治維新によって日本という国の成り立ちは大きく変化します。
西欧諸国の強さを知った明治新政府は、自ら近代国家となることでその脅威に対抗しようとします。
江戸時代、封建領主によってある意味なおざりにされていた庶民は、急に「国民」という意識を植え付けられ、近代国家の一員として組み込まれていきます。
国家体制の確立、インフラ投資、教育制度の整備、近代軍の設立、産業の育成など、やるべき事は山積していましたが、何を行うにしても元手は必要です。
ここで、農業以外では当時国内にある随一の巨大産業である酒造業の重要性が浮かび上がってきます。酒は娯楽であり嗜好品であるため、税金をかけて値段が上がったとしても比較的文句がでにくい、という一面もあったでしょう。
明治四年に酒株制度が廃止され、酒蔵の新規営業が可能になります。
よく「創業百何年!」みたいに掲げている酒蔵がありますが、現存する酒蔵の創業は江戸時代末から明治期が最も多いようです。確率論で古い企業が残りにくい、という事情は勿論あるでしょうが、この辺に政策の転換があったんだなあ、という名残を感じて面白いですね。

明治九年、三浦仙三郎酒造業への参入

酒造業新規参入への規制が撤廃されてから酒蔵の新設ラッシュが起こり、明治七年には全国の醸造所の数がピークを迎えます。そんな時代の波にのって、三浦仙三郎も明治九年に酒造業への参入を行います。
近隣の酒蔵を買収し造りを始めますが、腐造が相次いだようです。

当時の酒蔵は、経営と販売を担う「蔵元」と、製造を取り仕切る季節労働の「杜氏集団」で分断されているのが普通でした。蔵元は酒造に必要な設備を揃えて賃金を用意したら、製造に関しては杜氏に一任して、製造工程に関して口を出すことはご法度という雰囲気すらあったようです。
この辺、酒造業はハイリスクで蔵元の倒産はよくあることだったとか、冬場のみの季節労働という特殊な雇用形態であった事、また酒造には特殊な知識や技術が必要とされる上、チームプレーが求められる為に人集めの段階から杜氏に任せざるを得ない、みたいな特殊な構造に由来しているのかな? とは思います。
しかし、製造を一任できる腕の良い杜氏がいるならともかく、酒蔵新設ラッシュでどんどん酒蔵の数が増えるのに、酒造を担う人材の数は急には増やせない、というボトルネックが発生します。当時の酒造技術は、統一的なマニュアルにしたがって学ぶような物ではなく、それぞれが酒造現場で親方のやり方を見て習う物であり、また技術の希少性を失わないためか秘密主義の傾向もあったようです。
三浦仙三郎の酒蔵で腐造が続いたのは、買収した酒蔵に元々火落ち菌が巣くっていた為か、雇っていた杜氏の腕のせいなのかは分かりませんが、とにかく三浦仙三郎は酒造改善の必要性を痛感して、蔵元でありながら自ら灘へ修行に出たり、他地域の酒造家との情報交換を行って酒造について学び、習い始めます。

黎明期の酒造学、 「改醸法実践録」への道

明治十五年、三浦は腐造続きの蔵を手放して酒蔵を新設します。酒造に適した環境を選び、清潔に徹したつもりの酒蔵を建設しますが、この年の酒造りでも満を持して腐造しました。
翌年三浦は一年間造りを止めて、酒造先進地である灘へ修行に出ます。また、この時出始めていた酒造書なども買い込み、醸造知識を積極的に仕入れて、翌年から(杜氏には嫌がられながらも)自らの蔵で改良と実践に励んでいきます。

江戸時代には農書と呼ばれる農業技術書が数多く出版されますが、酒造書として広く読まれていた物はほとんどなかったようです。江戸時代の酒造書としては元禄ごろに書かれた「童蒙酒造記」が有名で、内容的にも非常に高度な名著ではありますが、これも多く刷られた訳でなく主に筆写で出回っていたようです。
しかし、明治十年代に入るとぽつぽつと数が増えてきます。三浦仙三郎と同じように、酒蔵新設ラッシュ時に参入したものの、酒造技術の低劣さによって腐造に苦しんだ酒造家の需要は多かったのでしょう。明治十年代は、清酒醸造を科学的に解明する試みが始まったばかりで、各地の酒造家と学者たちは暗中模索しながら「どうして灘ではうまく行っているのだろう?」と首を捻りながら研究している雰囲気を感じます。

ビール造りでは水の硬軟を重視しますが、清酒造りで水の硬度について注目されはじめるのは明治二十年代に入ってからになります。灘て使われている「宮水」を分析したところ、硬度の高く、しかもカルシウムマグネシウムカリ塩素など醪中で酵素の抽出や酵母の増殖に関わる成分が多く、鉄やマンガンなどの不良成分が少ない水であることが明らかになりました。
灘酒の優位性の一つは硬水にあるのではないか? という情報が次第に広まっていきます。
地道に酒造改善を続け少しずつ成果を上げていた三浦も、明治二十五年に水の硬軟についての情報を耳にすると、早速自らの蔵の仕込水の調査を行いました。その結果、灘の宮水とは異なる軟水であることが判明します。
その翌年、酒造家の大八木正太郎は自著「日本酒醸造実践説」にて水の硬軟と精米歩合との関係を述べ、また広島の酒造家たちに招かれて行われた講演会でその内容を語ったことから刺激を受けて、三浦仙三郎は「軟水醸造法」を志した、みたいなストーリーが良く語られています。

ただし、「改醸法実践録」を書いた時点(明治三十一年)では、「水質米質は各地方によって違うから真似できない」と記しており、「改醸法実践録」の内容もいわゆる「軟水醸造法」に特化した独自の方法というよりは、これまでに積み重ねてきた実験、改良の成果を、他の酒造家の方法と比較しつつ具体的に紹介している感じです。

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