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映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を観る

 ベネディクト・カンバーバッチ主演の映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(原題:The Power of the Dog)を観た。ときは1920年代。美しく雄大なモンタナ(撮影地はニュージーランド)の風景とコントラストをなすのが、主人公フィル・バーバンクを中心に展開される愛憎入り乱れる人間ドラマだ。
 映画のタイトルは旧約聖書の詩篇第22篇20節「Deliver my soul from the sword, my precious life from the power of the dog!(わたしの魂を剣から救い出しわたしの身を犬どもから救い出してください)」からとられている。この「犬」とはすなわち、弟の嫁とその息子ピーターに執拗ないやがらせをするフィルのことである。この映画は実は、この「犬」であるフィルに対するピーターの復讐劇でもある。弱々しい雰囲気からは想像出来ないピーターの狡猾さと周到さに観るものは戦慄する。すべてを仕切っていたかのように思われたフィルが次第にピーターによっていつの間にか翻弄されていく姿は同情を誘うものであり、カンバーバッチの演技が光る。
 朝日新聞に掲載された映画評に興味深い指摘を見つけた。―「ニーチェ「愉(たの)しい学問」に書かれた「私の犬」をも想起させる。「私は、私の苦痛に名前をつけた。『犬』と呼ぶことにしている」。犬はフィルの内部で猛り狂う苦痛ともとらえられる―(大久保清朗)。
 フィルは同性愛者である。彼とその弟に牧場を譲り、恩人でもあるブロンコ・ヘンリー、彼をフィルは愛していた。ブロンコを喪って以降彼は愛の喪失に中に生きている。当時の時代状況からして同性愛者であるというアイデンティティを隠して生きることも「苦痛」であろうが、それ以上にブロンコを喪ったことによって生じた、埋めることの出来ない心の穴こそ彼にとっては「苦痛」であるはずだ。フィルは誰にも見つけられない場所にブロンコの形見を隠し持ち、人目を忍び足繁くその秘密の場所に通い続けている。フィルはこの「苦痛」によって歪んでしまったからなのか、弟の嫁に対して「自分のむしゃくしゃした気分を晴らし」(ニーチェ「私の犬」より)ていた。
 ある出来事をきっかけにフィルはこれまでいじめていたピーターとの間に絆を感じ、愛情を持って接していくようになる。フィルのアイデンティティを知ったピーターによる狡猾な誘惑に嵌ってしまったというのが実情なのだが。「自己自身を何かに仕立て上げるなどということを――それが聖人であれ(!)……または義人であれ悪人であれ、病人であれ(!)――まったく断念した時(略)、その時こそ、人は、みずからをまったく神の御腕の中に投げかけている」(D・ボンヘッファー)。「苦痛」を自らのうちに閉じ込めていきるニーチェ的な「強い個人」、そうした個人のあり方を諦めた時にあるいは救済が待ち受けているのかもしれない。ニーチェ的個人を諦めるモメントにあるのは愛を通した他者への開かれであろう。自立(自律)した「強い個人」のフィルがピーターとの関係性のなかで再び愛に目覚め、魂の救済を得られていく、そういう可能性が確かにあった。その希望を踏みにじるようなピーターの残酷さは現代に蔓延るシニシズムのメタファー、とも言えよう。
 音楽を手がけたのはジョニー・グリーンウッド。ポール・トーマス・アンダーソンとのタッグも素晴らしいが本邦公開予定のパブロ・ラライン監督『スペンサー ダイアナの決意』でもスコアを担当しており、映画監督たちからの信頼は厚いようだ。

 参考文献:宮田光雄『われ反抗す、ゆえに我らあり』(岩波ブックレット)

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