見出し画像

小林秀雄『モオツァルト』

 23年の人生でどれだけの本を読んできただろうか。部屋の本棚には本が何百冊と並んでいるが、そのすべてを詳らかに読んだわけではないカントの『純粋理性批判』、アドルノの『ミニマ・モラリア』、グラスの『ブリキの太鼓』(やはりドイツものが多い)、あるいは清宮四郎の論集などなど、背伸びして買った本もたくさんある。
 自分は多読ではない。多読であろうとしているし、その努力もしているところだが読書における性分は好きな、あるいはこれは大事だと思った本を読み返すというものである。
 「You are what you eat」という表現があるが、「You are what you read」ともじらせてもらえばこれまでの読書体験において私自身の思想に、あるいはものの捉え方に強い影響を与えてきた本は、数は多くないが、やはり存在する。大学に入って読み始めた村上春樹、吉田秀和の『世界の指揮者』、シェイクスピアの『ハムレット』などがその一例だ。原書と合わせて読んだアレントの『自由とは何か』というエッセイは、大学院に入って間もなく出会えた。これは丸山眞男も『自己内対話』で驚きをもって言及しているものだが、いずれまた読み返したいものだ。
 つい前書きが長くなってしまったが、ここではそうした一冊として、中学生の時に出会った小林秀雄の『モオツァルト』について書きたい。大学に入った頃、何人かの教授がレポートの書き方における注意点として「小林秀雄のように自分の感想をダラダラと書かないこと」という指示を受けた。その時小林秀雄が好きだった私は「どうして小林秀雄じゃだめなんだ」と内心疑問を抱いたが、少し分別のついた(?)今なら「お前らは小林秀雄みたいにすごい奴じゃないんだから、感想ダラダラ書いても読めたもんじゃない、勘弁してね」という、膨大なレポートを読まねばならない教授たちの悲痛の声として理解出来るのだが。
 さて、詩人の萩原朔太郎はエッセイ『ニイチェに就いての雑感』(木田元編:日本の名随筆別巻92『哲学』所収 作品社)の中で、ニーチェの哲学は「彼の慣用する音楽術後で言ふCon moto(思ひ入れ)の部分を、自分で直感的に会得せねばならない」と書いている。小林の『モオツァルト』(モーツァルトではない!)にはまさに「Con moto」の書である。夜の道頓堀で彼のシンフォニーが頭に鳴り響いたという描写の時点でこれは極めて私的な性格をもった評論である。またそれまで、あるいは今も、モーツァルトという作曲家にデモーニッシュな性格を読み取ろうとした人がいるだろうか。癒やしのモーツァルト、天真爛漫なモーツァルト、これは今でも多くの人がイメージするところのモーツァルトではなかろうか。しかし私はこの小林が描く「デモーニッシュ」な、あるいは「人間的、あまりに人間的」なモーツァルトも愛している。これはいわばB面としてのモーツァルトである。
 先日古楽の大家アーノンクールが晩年に録音した後期3大交響曲集を聴いた。確かに小林が夜の道頓堀で聴いた40番というのは憑かれたという感覚を抱かずに聴くことは出来ない。まるでグリューネヴァルトの絵画世界を見ているようである。E

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?