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ベートーヴェン、彼岸より戻る:普遍とは何であろうかを考えるに至った体験について

 哲学的な難しい論議は抜きにして、音楽や絵画といった芸術に触れて深く美しいと感じる時純粋にプラトンがイデアについて言ったことについて納得することがあります。美というイデアがあってそれが様々に形を変えてこの世で表象されている。
 普遍とは何であろうか、この問が私の中にはっきりと根付いたのは大学3年生と時にサークルの同期から破格の値段で譲り受けたチケットで行ったコンサートでベートーヴェンの第9交響曲を聴いた時でした。オーストリア生まれの秀才フランツ・ヴェルザー=メストとアメリカの名門クリーブランド管弦楽団の演奏でした。「分け入っても分け入っても青い山」、第2楽章を聴くと僕はいつもこの俳句を思い出すのですが、その後にやってくる第3楽章でベートーヴェンはもう世界のあちら側、彼岸に行っている。しかし彼は我々人類のために決然と此岸に戻ってくる、こういうイメージが僕の頭の中にとても明瞭に浮かび上がったのです。とても不思議な体験で、彼岸をイメージさせる高く険しい山脈と紫色に光るの雲海や巨大なベートーヴェンの大理石像がホールを見渡しているという極めて具体的な映像が眼の前に繰り広げられました。こんな体験は今のところそれぎりです。このような絶対的体験をもう一度味わうために、今後も私はコンサートに通うのかも知れません。それが簡単には体験することができないとわかりつつ(・・・・・)。
 わかりつつ、と意識するのは私がそこである種絶対的な美に触れてしまったという思いがあるからです。それでも日々音楽を聴くということはその時認めた美をヒトという実は極めて限られた感覚器官の持ち主である動物が現世で感受し得る最高のものも、追体験することではないか。
 人が、ここでは芸術家といった方が正しいのかもしれませんが、普遍的な表現を獲得する時に何が起きているのか。それを獲得するにいたってプロセスはどのようなものであるのか。私は今のところ、それは人が自分の背負っている極めて個人的な問題に向き合い続けた結果として生まれるのではないかと思っています。それは才能のある無しに関係するものではない、とも。今読んでいる大江健三郎と古井由吉の対談集の中で大江が同じようなことを言っている気がして心強く感じています。(新潮文庫『文学の淵を渡る』より、〈明快にして難解な言葉〉15~17頁。) 
 指揮者のサイモン・ラトルがこのようなことを言っています。「ハイドンがストラヴィンスキーに影響を与えている」だけでなく「ストラヴィンスキーもハイドンに影響を与えている」と。最初は意味不明に聞こえたこの言葉も普遍、という言葉を考えている今少し納得してきた気もします。ハイドンもストラヴィンスキーも時代を超えて、イデアに奉仕する芸術家だということではないでしょうか。

                                M2:E

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