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綿矢りさ 蹴りたい背中 感想(追記あり)

愛聴しているポッドキャスト番組が取り上げていたので、この機会に初読。今だからこそわかる発見があって、このタイミングで読むことができて本当によかった。

この作品を読み解く上で重要なのは、主人公の人物像だと思う。近年の文学作品と比較すると、心象描写がさして明瞭だとは言えず、それ故になんとなくわかるようなわからないような。という印象だ。その辺りを切り込んでみたい。

視点人物であるハツは、中一の時に地元の無印良品の店内で、ファッションモデルのオリチャンと出会う。オリチャンは、恋人と思しきカメラマンと共に、前夜の酒が残った状態で何気なくハツにちょっかいをかけるのだが、ハツは、普段学校でそうしているように、その場の空気を読んで見よう見まねのリアクションで応じてしまう。それがたまたま性的なニュアンスを含んでしまったので、少女にイタズラする大人の図式になってしまい、オリチャンたちを瞬時にしらけさせた。というエピソードが前半1/3あたりに提示される。

ここは、複雑な人間心理が交錯する、極めて優れたシーンである。読み解くにはある程度の予備知識が必要だ。

幼児が、生殺与奪を握る周囲の大人たちの関心を引くという行為は、生存戦略としてごく自然なことである。構ってもらえなければ死んでしまうからだ。これは哺乳類に共通して見られる事象である(本作の冒頭が生物の授業であることも思い起こして欲しい)。

ハツは、この場において、適切なコミュニケーションを瞬時に選択することができずに混乱した。オリチャンとカメラマンが、見た目「赤ちゃんプレイ」のような行為をしていたこともあって、ハツは、「周囲の関心を引く幼児」の状態に陥ってしまったのだ。

これが彼女にとって、いわゆる「トラウマ」に近い心の傷となった。中一にもなって幼児のような「構ってちゃん」になってしまった自分。これが、幼児性への嫌悪の萌芽となった。ビジネス用語的に言えば、「TPOに応じたコミュニケーションプロトコルの選択」に失敗した事例である。

高校に進学してからの風景が、ハツにはどのように見えたのか。この疑問にはもう一つ補助線が必要になる。当時、ゆとり教育の余波として、一部の幼児教育に導入された、悪しき平等主義というものがある。徒競走で一番二番を決めるのではなく、みんな横並びになって一緒にゴールテープを切る、という馬鹿げた風潮である。

さすがにこれは短命に終わったようだが、みんないっしょのなかよしこよしの思想は、いっとき、社会に蔓延していたように思う。

この作品で描かれる高校生活のありようは、まさにこの悪しき平等主義に毒されている。生徒同士はおろか、部活顧問の先生も、みんながみんなお友だち。周囲に好かれようとして媚を売るような人間関係。前述した体験を経たハツの目からは、こうした関係性は幼稚の極みだったのだ。

ハツがクラスメイトを見下すようにして距離をとっていたのは、幼児性への嫌悪であって、闇雲に他者を排斥しようという意図はないのだ。成熟した個人としての関係性を希求していた彼女は、早い話、「早く大人になりたかった」。だからいきがっていた。そこがまた子どもを脱しきれない「中二病」的ではある。

そんなハツは、生物の授業で、自分と同じように余り者の立場にあるのに、周囲の様子を気にもしていない男子、にな川を発見する。

彼の行動や生活は、ハツの確かな観察眼によって仔細に描かれているので、勘のいい読者は、彼がアスペルガー症候群の特徴を備えていることに気づくだろう。にな川の風変わりな生態は、おおむねそれで読み解ける。その上で、作者の筆致は、彼を類型に落とし込むことをせず、ひとりの人間として、丹念にその生態を描写していく。

物語は、このような人物を主人公の相手に選んだことによって、二人の関係性が一筋縄ではいかない複雑さを孕んで展開する。

ハツは、この変わり者のにな川に、思いのほか気楽に話しかけることができる自分に気づいて、「男友達」の可能性に胸を高鳴らせる。ハツから見たにな川の存在は常に性的なニュアンスを含んでいる。これが、直接的な「セックス」の隠喩であるのか、あるいは普遍的な「生きること」という意味を含んだ「エロス」であるのか、その振り幅を内包した、決定打に欠く複雑な心情、それが余すことなく描かれていて、読み返すほどにその波紋が心に広がり染み渡った。

それが頂点に達するのが、「背中を蹴る」という行為である。二度、出てくる。シチュエーションもアクションも異なるし、それぞれの心情も、二人の関係性も、別の形を見せている。多層的な人間感情の交錯がそこにある。傑出した文学的表現だと思った。

最後に、この作品の歴史的な意義について簡単に述べたい。今、読むと、現在と当時とで、人々を取り巻く環境や、問題意識について、ずいぶん大きく変わったな、と思う。

最近読んだばかりの『N/A』(年森瑛)や、桐野夏生や辻村深月の小説を読んで感じることだが、それらにおいては、人物の心理描写を微に入り細に渡って分析し提示するという手法を採用している。それは文学的抽象性を損なうが、現代の複雑性に対抗するには必要なのではないか。これをクリアしない限り、人間的な普遍性には到達することができない、そんなところまで文学表現は追い込まれているのだと思う。

『蹴りたい背中』は文学的抽象性に満ちている。だがそれでは伝えたいことが十分に伝わらないかもしれない。そんな端境期に位置した作品だと思った。

一方、現実社会に目を移すと、現代は、本作品の頃とは比べ物にならないくらい、人間関係に要するコストが増大している。インターネットを経由した情報の流通が隅々にまで行き渡った結果、いち個人が、四六時中他者の視線に晒される圧力を感じるようになった。

そんなに人付き合いがしんどいのなら、いっそのことやめてしまうのもありなのではないか。にな川のように、自分が没頭できる趣味なり仕事なりを見つけて、そこに引き篭もる生き方が、幸福ではないなどと誰が言えるだろう。

本作の極めて印象的な書き出し「さびしさは鳴る。」のその後を引き取って、そんな現代人を描写するなら、

「さびしさの音色は人によって違う。わたしのさびしさは他人には聞こえないし、他人のさびしさをわたしが聞くことはない。」

と続けたい。そんな時代に私たちは生きている。

それでも。

『蹴りたい背中』のラストシーンは、期待と不安が入り混じる複雑性を持ちながら、なお未知なる領域へと踏み出していく前向きさを感じさせるものだった。それは生きるということへの無条件の肯定である。文学に息づくその精神は今のこんな時代でもなお、生きている。

(追記)

以上の感想をアップして1日してから、指摘しておかなければならない重要な点があることに気づいた。

それは、タイトルにもなっている「蹴りたい」という行為である。その一度目の描写で、ハツは、オリチャン(のアイコラ写真)を経由してにな川を見て、性的な興奮を覚える。そしてこの一文。

この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。

攻撃的で、強い者から弱い者へと向けられた、加害の衝動を感じる。こうした気持ちはわからぬでもない。「生身の女がここにいるのに、なんなのこいつ?」という不満なのか、母から息子、姉から弟への「あんたしっかりしなさいよ」的な叱咤なのか、あるいは好きな子を虐めたいという幼い恋心のようなものか。これらが絡み合った、一言では言えないような身体コミュニケーションなのだろう、と思っていた。

ここに、もう一つの解釈があることに気づいた。

上述の感想で、ハツの中一の時の体験を「トラウマ」に近い心の傷、と表現したが、これをライトな「性被害」だと考える。そうすると、彼女がにな川の背中を「蹴りたい」と思った加害心理がより深く理解できる。

社会を震撼させる猟奇的な犯罪事件が起きた時、「犯人は幼い頃に親から虐待を受け〜」といった報道を聞くことがある。幼少期に受けたトラウマは、その被害者が長じてから、加害として噴出することがあるのだ。そのことは文学作品にも繰り返し描かれていて、例えば映画化もされたデニス・ルヘインのミステリー『ミスティック・リバー』もそうである。性暴力を受けた少年が、中年になってから、自分が少年に性加害をしてしまうのではないかという強迫観念に苦しむ描写がある。

『蹴りたい背中』は、マイルドな性被害を受けた少女が、そのトラウマを昇華させた物語として読むことができる。この作品の主人公、ハツに、作者である綿矢りささんの姿が投影されているかもしれないことを思うと、複雑な心境である。