岡村隆史のオールナイトニッポン(4月30日 25時〜27時)を聞きました

ナインティナイン岡村隆史が自身のラジオ番組で、女性蔑視の発言をして大炎上をしました。翌週、彼は自分の言葉で謝罪するだろうと思い、当番組を聴いてみました。

冒頭5分間で彼は、真摯な口調ではあったものの、定型の枠を超えない謝罪の弁を述べました。こういう謝罪に触れると、そこまでわかってるなら最初から失言しないんじゃないの?と思ってしまいます。

一曲挟んで、彼の一人語りはまだ続きます。この一週間で考えたこと、知人たちから連絡をもらったことなどの経験談を話し始めました。この辺でようやく血が通った言葉になってきました。養成所の先生から「こんな時だからこそ、人の心に寄り添わなければいけないのではないか」という言葉、返す刀で、こんな時だからこそこんな正論が通じるよな、と思いながら聴いていました。

タイトルコール、テーマ曲があり、仕切り直しかと思いきや、まだまだ彼は自分の話を引きずります。だんだんと堂々巡りの弁舌になってきました。CM明けでもまだ反省話は続きます。このご時世なので他の仕事にまつわる話題もなく、家で自炊したり片付けしたりと、煮詰まった精神状態だったようです。

リスナーのことを想像したりと、岡村隆史の肉声が綴られていくにつれ、段々とキツいムードになってきます。言葉だけのラジオであるからこそ、その感情は伝わりますが、どうやって締めくくるのよ?と、飽きが来てきた放送開始40分ころ(いやぁここまでが重かった!)、

「やったなお前、やってもうたな、もたんやろ2時間」といいつつ相方の矢部博之がスタジオに入ってきました。

ここから番組終了まで、ラジオ生放送の形を借りての「公開説教」(などと巷で揶揄されていますが)、これは唯一無二の放送回でした。ここでなされていたのは結果的には心理カウンセリングですが、公私ともに付き合いの長い盟友だからこそ言えた発言のオンパレードでした。

どんな言葉であっても、心にないことは出てこない。普段から思っていたことが失言として表に出てきてしまう。そればかりか、その「心」のありようについてまで、具体例を引いた矢部の指摘が続きます。

僕は岡村と共通する性格上の問題点を自覚しているので、矢部の指摘の根幹にある岡村の心について推察しながら聴いていました。「ありがとう、ごめんなさい」が言えない。これは、対人関係に緊張して、フリーズ状態になっているのではと思います。ナチュラルにいう短い言葉が、すっと口をついて出るのではなく、頭の中で状況を組み立てて言う言わないを決めてからでないと言うことができない。まるで免許取り立てでガチガチに緊張している初心者ドライバーの運転のように。

若年からそうした緊張をもって人間関係をやりくりしていくと、次第に、相手を見て都合よく態度を変えるようになります。言いづらい相手にはやんわりとした断り文句を人づてに伝える。言おうが言うまいが大差ない相手と自分が見切ってしまうと、相槌程度でおざなりに終わらせる。つまり、相手に対する思いやりの気持ちが生まれる余地がないんです。

矢部がやったような、相手が嫌がるような指摘ができるのは、自我が形成される思春期から青年期だと思いますが、その時は当事者とて自分で自分が何者か、ということがはっきり言語化できていないので、「気持ち」を伝えることがせいぜいです。

しかし、今回のように、精神的に成長した矢部は、自身のこと、相方のことを言語化できています。彼は放送中に「48歳の俺が49歳のアンタに説教するなんて、恥ずかしいわ」と言っていましたが、お互い、その齢でないと言葉にできない、理解できないことがあります。人間の成長に期限はありません。

さて、最後に、僕からぜひとも指摘しておきたいことがあります。今回の一件は、コロナがあったからこそ表面化したのだということ。大規模な災害は人間の心をさらけ出してしまう力があります。そして、いかに無知で「子どものメンタルのままの」岡村隆史とはいえ、今まで生きてきた中で、自分自身の性格上の欠点について、かなりの程度は自覚的であることと思います。

問題は、「ダメなのはわかってはいるけど、改善のための前向きな努力に必要なエネルギーを、どこから調達したらいいのか」これです。

自分の心の中をいくら覗いてみても、そこには闇しかありません。エネルギーは外部から調達しなければなりません。身近で親しい人間たちの存在が最有力です。しかしそれが叶わない場合。

それこそ、今、この時期なら言えます。死者は、死ぬときに、残された者に力を与えます。人は、死ぬことによって、生きている人に対して、生きる、ということの意味を投げかけます。

これまでも、これからも、コロナ感染症によって、世界中の人々が死んでゆくでしょう。生き残った人々が形作る社会を考えてみる。今回の放送は、有意義で公共性のある内容だったと思います。