見出し画像

「恋」と「愛」の違いについて

定番の話題の一つではありますが、ふと思いついたので作文しながら考えてみます。正解を探すのではなく、こういう抽象的な概念を持つ言葉を、どのように説明したらしっくりくるのか、という、自分の頭の中の国語辞典を埋めていくような遊びです。

まず「恋」からいきましょう。
(1)誰かを好きになる気持ち。
(2)その、好きになった相手に対して、自分のことを好きになってほしいと思う気持ち。
この二つの条件が成立したときに、それは「恋」なんだ、と考えました。

(1)では、対象を「誰か」つまり人間であるとしました。今、読んでいる本に、「わたしは、この街に恋をしているのだ」というような文章があったのですが、この「恋」からは文学的な香りがします。普通は使わない言い回しを表現として使うから印象に残る。ということは、通常は「恋」の相手は人間だろう、と思います。

「人間」であっても、例えばタレントとかアイドルとかの著名人だったらどうだろう。その場合は、(2)の条件が妄想めいてきます。2次元キャラの場合にも同じことが言え、そうしたときには「推し」という便利な言葉があって、それでスッキリしていいと思います。

「恋に焦がれる」とか「恋が成就する」といった短文を作ってみても、おかしな矛盾は出てこないと思うし、これでよし、ということにしました。

次に「愛」にいきます。
実はこの記事を書こうと思ったきっかけでもあります。飼っている猫を撫でているときに、ふと思いつきました。こうして手で触ることと、「愛」という概念は関係があるのではないか、と。

ここから僕の思考はかなりの飛躍を見せることになりますが、まずは結論を述べます。「愛」とは、
(1)対象の存在が、我が身の存在と、「かなりの度合い」近い、と思える感覚。
(2)同時に、彼我の存在が「違うものであると知っている」という、心の奥底の動きを意識すること。
これらでいう「存在」とは、物理存在のことを指します。この物質世界に在るということ。生命に限定して言えば「生きている」ということ、もっと身近に「肉体」と言い換えるとわかりやすいでしょう。

肉体存在としての「猫」と「僕」が、とても近しいものに感じられることが、実際に猫を撫でているときに感じた「愛」の正体なのではないか。と同時に、僕も猫もいずれ死んでしまう、多分、別々のタイミングで。別の肉体なので。ということが脳裏に浮かびます。

では、この二つの言葉を比較してみましょう。それぞれ、どういう使われ方をしているのか。「恋」に関して思いつくのは、熟語では、失恋、悲恋、恋慕とか。歌の文句では「恋しちゃったんだ、多分気づいてないでしょう」「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」とか。朧げながら浮かび上がるのは、現在進行形、一過性の心理、ときめきのようなもの、でしょうか。

「愛」になると、沢山の熟語があることに気づきます。友愛、愛着、郷土愛、愛国、愛犬、愛猫、愛鳥とか、色々な言葉に結びつきやすい分、大雑把で掴みどころがない感じがします。何かこう、細々した理屈じゃなくて、ただそれが好き、あるだけでいいんだ、存在してくれてありがとう的なニュアンスでしょうか。でも安易に使われやすく、その実態が見えにくくなってしまう欠点もある言葉です。

「恋」と「愛」を比較することによって、はっきりした違いを見つけたい。一刀両断するのであれば、このように定義したらどうでしょう。

(1)「恋」とは、手に触れられないもの。
(2)「愛」とは、手に触れたときに心に生まれる(あるいは生まれない)もの。

あちこちに散らばった思考を収斂させるために、男女の「恋愛」のストーリーを思い浮かべます。心の中で相手を想う、好きだという気持ちが「恋」で、それが成就して相手に触れた瞬間に新たに生まれるのが「愛」。

「恋」の、ただ好きで好きで堪らない気持ちというのも強烈ですが、「愛」は、相手に触れることによって感じ取れる、存在を慈しむ気持ち、形容するなら「広い」「深い」感情なのかなぁ、と思います。

私たちは生きている、限られた時間の中で、という事実の元では、手に触れる、手で触れるという行為は、とても大きな感情をもたらすのではないか、と気づきました。

(余談)この僕の定義によれば、肉体が滅びたら「愛」もなくなる、ということになります。しかし「恋」が持続することはあり得る話です。手に触れられなくとも成立する観念の世界の概念なのですから。だから、もし霊的なものが存在するとしたら、それは恋心を持ちうるということになるし、「恋」の正反対の概念である「恨み」もまた然り。人間感情は侮れないと思います。