邦楽の歌詞を解釈して遊ぶ

邦楽の楽しみの一つに歌詞があります。最近、ラジオ等で歌詞についてのコメントに接したので、いろいろ想像して遊んでみました。

文化放送で5月に放送された特番『音楽で日本をアゲる!』に、バンド「ニガミ17才」の岩下優介と平沢あくびが出演しました。この二人はトークも面白く、出演情報を知ると欠かさずに聞くようにしています。「モヤモヤする曲」のコーナーで岩下さんが挙げたのが、

(1)桜田淳子『気まぐれヴィーナス』(1977)

歌詞

https://www.uta-net.com/song/38737/

作詞、阿久悠。作曲、森田公一。桜田淳子の楽曲の中では大ヒットとまではいかなかったものの、代表曲の一つとして、この年の紅白歌合戦で赤組トップバッターとして披露しています。

岩下さんの疑問は歌の1番、冒頭は「トマト=私=淳子」の比喩としてわかるが、それ以降がさっぱり理解不能とのこと。この歌を改めて聞いてみて、僕には映像が浮かんできました。

まず、「この夏はおまかせなの」「渚に寝そべって」とあるから、夏歌ですね。

夏の日差しの中で、主人公=「あなた」と淳子=「私」は、海水浴場にデートに出かけたのでしょう。私は、海の家の更衣室で水着に着替えます。でもそのまま外に出ていくのはちょっと恥ずかしいから、大きなバスタオルをマントのように肩がけにしてビーチにでていく。

ビーチパラソルやビニールシートで自分たちのエリアを確保した後、さあ、泳ぐぞ、と、バスタオルをパッと取り去る私。そこにはビキニを纏った健康的な女性の姿が!私は波打ち際に走り出していくのでした。

「プピルピププピルア」「指をはじきながら」。岩下さんが首を傾げたこれらのフレーズ、僕には、ああそうか、とピンときました。これはステージマジックになぞらえているのかな、と。

当時、テレビのバラエティ番組でよく見ました。マジシャンが、アシスタントの美女を剣で串刺しにしたり、鋸で胴体を切断したり。しかし、なんと、被せた布をパッと取ると、無傷の美女が現れる。

呪文を唱えて指をパチンと鳴らすと、まるで奇術のように、眩しい肢体が現れる、その瞬間の描写じゃないのかな、と思ったのです。

さらに、この歌の面白いところは、2番でネタばらしのようなことをしているところです。1番で比喩的表現をしていたところを、そっくりそのまま平文にして開示しているように思えます。

「トマト」の部分が「くちづけ」に、「こんな言葉突然いわれたら」が「こんな私目の前にしてたら」と、より直接的になり、そのことで恋が進展していく様子が感じ取れる。こんな短い曲なのに、イメージとして広がりを感じる、巧みな歌詞だと思いました。

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「文春オンライン」で読んだ連載「近田春夫の考えるヒット」(週刊文春2019年10月17日号)で取り上げられていた

(2)あいみょん『空の青さを知る人よ』(2019)

https://youtu.be/ztdpBUDf00o

歌詞

https://www.uta-net.com/song/274155/

近田春夫氏もこの曲に感銘を受けていて、力の入った論評をしているのですが、わざとなのか何なのか、重要な点を見落としています。主人公(男の子)には会うことさえ叶わなくなってしまった人がいる、そこまではいいとして、その理由が定かではない、としている。

相手が死んでしまったから、ということを読み取っていないのです。「さよならも言わずに空になったの?」というフレーズをどう解釈したのでしょうか。さらに付け加えると、その女の子が死んでしまった原因は「悪魔の顔をした奴らが」「会いたい人に会えない」から病魔であることが推察できます。

いやこれ、やっぱり近田氏はわざと言及していないんだろうな。リスナーの感受性に委ねている。聴く者の楽しみを奪いたくないという心理は、作り手である氏は十分心得ているはずだし、ここは道化になったということなんだろうな、と、この文を書いていて思い直しました。

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(3)Vaundy『僕は今日も』(2020)

https://youtu.be/LKyx3EYVlkA

歌詞

https://www.uta-net.com/song/281219/

この曲が『J-WAVE TOKIO HOT100』で紹介された時、MCのクリス・ペプラーさんは、歌い出しのフレーズを引いて「母は応援し父は苦言を呈する、飴と鞭ですね」といういい加減なコメントをしていました。何十年も音楽番組を担当している人気MCがこの程度か、と唖然としたのを覚えています。

歌詞をよく読む以前に、歌い方からして、母の言葉も父の言葉も、自分への無理解から発せられた辛い記憶だということがひしひしと伝わってきます。

この曲は聴いて愉快になるわけではないですが、例えば尾崎豊の『15の夜』は、作者の意図はともかくとして、この曲の背景に多くの若者の姿があることが感じられる。

対して『僕は今日も』はあまりにも個人的な歌であり、Vaundyはこの曲を一人で背負っているんだろうなと思います。これは大変な勇気だと思うし、この感情を自作自演することが、プロの表現者としてどうしても達成したいことだったんだという覚悟も感じられます。

そして、現在では音楽は容易く国を超えて広がっています。歌詞の意味がわからなくてもみんな普通に歌を楽しんでますものね。やっぱり今は作り手が作りたいと思ったものを作り、歌う。それがいい。そんなことも考えた一曲でした。