見出し画像

博愛主義者は君を愛せない ~愛に関する一考察~

あらすじ

大学入学の初日、人見千覚(ひとみちさと)は同じ大学に入学した幼馴染の植田愛(うえたあい)に運命の相手に出会ったことを告げられる。その相手・結賀(ゆいが)ジャクソンと新入生ガイダンスで再び出会い、三人とも同期であることが発覚する。
親愛の証として、ジャクソンは二人を秘密の場所に連れていく。そこはジャクソンと愛が出会った場所で、ジャクソンはここで運命の出会いをしたのだという。そしてジャクソンが想いの丈を打ち明けるが――。
これは、冗談にすら思えるような、大いなる愛の物語。

本文

 愛――それはさながら電流である。

 あなた、きっと今日、運命の出会いがあるわよ。
 僕はふと、歩道の端で歩みを止める。顔を上げると、桜の花びらが春風に乗って、どこか遠くへと向かっているところだった。花びらの行く末を見守っていると、不意に肩に衝撃が走る。「おい」という声がするほうを見ると、ライダースジャケットを羽織って髪を逆立てた男性が、大学に向かう人の流れに流されながら、こちらを睨みつけていた。
「申し訳ございませんでした!」
 僕が深々と頭を下げると、男性は舌打ちだけして、もの凄い速さで進んでいく人波に乗っかっていった。大変申し訳ないことをしてしまった。もしもう一度お会いできたら、きちんとお詫びしよう。
 あなた、聞こえた? そう言うように、もう一度春風が僕の耳を擽る。ええ、と僕は小声で返事をした。たしかに春風は、「あなた、きっと今日、運命の出会いがあるわよ」と言った。そんな大切なことを教えてくれるなんて、春風はなんて優しいのだろう。
「ありがとう」
 僕は語りかけるようにそう言うと、群衆が過ぎ去った歩道に視線を送る。そして歩き出そうとした、そのときだった。
「――でええええええええっ」
 女性の甲高い声とともに、今度は背中に衝撃が走り、直後額が何かにどん、とぶつかる音が響いた。いったい何が起こったのだろう。そう思って閉じていた目を開けると、目の前にゴシック・アンド・ロリータファッションに身を包んだ小柄な女性が倒れていた。
「…大丈夫ですか?」
 僕は彼女の傍らでしゃがむ。彼女は「いたたたた…」と言いながら、体を起こしてあひる座りをする。掌を見ると、傷口から血が滲んでいた。
「そのまま動かないでください」
 僕はきっぱりとそう言うと、カバンから消毒液と大判の絆創膏を取り出し、彼女の手に迅速な処置を施した。「他に痛むところはないですか」と聞くと、彼女はこくりと頷いたので、僕は彼女の手を取って立ち上がらせる。そして、目が合った。
 彼女の大きな眼が、さらに一段階大きく開いたのがわかった。閉じていた口が僅かに開き、その隙間から小さな歯が覗いている。そして、チークをのっけた頬は、みるみるうちに紅潮していった。
 「あの、」と僕が言ったのと、「すみませんでしたあああああ」と彼女が叫びながら逃げ出したのは、ほぼ同時だった。呼び止めようと前に出した手は行き場をなくしてしまったので、なんとなしに手の甲を額に当てると、ボルドー色の液体が付着していた。おもむろに振り返ると、そこには10mほどはあるだろうか、空へと高く伸びている電柱が立っており、幅30cmほどの黒地に黄色のカバーが、ちょうど僕の顔当たりの高さに巻きつけられていた。
「なるほどね」
 僕は独り言ちるのと同時に歩き出す。今日は大学の入学式、新たな世界の始まりの日だ。

 退屈な入学式が終わってホールを出ると、小柄なゴスロリが私を見つけるなり、もの凄い速さで手を振る。変わらないな、と思いながら、私はひときわ目立っているゴスロリのもとへと、迷いなく歩み寄っていった。
「愛ちゃんよかった、ちゃんと――」
 入学式間に合ったんだね、と言おうとした私に、愛ちゃんは「ひーとーみーちゃああん」と泣きそうな声で言いながら抱きついてくる。顎のすぐ下にある頭をぽんぽんと軽く叩くと、愛ちゃんは私の体から腕を解き、涙で滲んだ目元を拭った。自分の胸の辺りを見下ろすと、黄色いタートルネックのニットに、うっすらと水滴が浸み込んでいた。
「ごめんね朝間に合わなくて、一緒に行こうって言ってたのに」
 愛ちゃんはしょんぼりしながら、上目遣いで私を見る。まるで今にも叱られそうな子猫みたいだな、と思いながら、私はふふっと笑った。
「ううん。私こそ、起こしにいけばよかったね。愛ちゃんが寝坊するなんて、想定内だったのに」
 私がからかうように言うと、愛ちゃんは口を尖らせて、「うー、それは失礼だぞー」と言いながら拳を握る。その握られた掌は、大判の絆創膏で丁寧に覆われていた。
「あれ、愛ちゃんそれって…」
 私が絆創膏を指さすと、愛ちゃんは「あっ、」と明るい声を上げて、私の目を見る。その笑顔は、あまりにも眩しかった。
「あのねひとみちゃん、今朝すごいことがあったの。実はね――」
 愛ちゃんが言いかけた瞬間、目の前からぐうーと腹の虫の鳴き声が聞こえる。愛ちゃんは恥ずかしさをごまかすように、えへへと笑った。
「お昼の時間だし、ご飯買いにいこっか。学内に売店あるみたいだから、買って次のガイダンスの教室で食べよ」
 私が提案すると、愛ちゃんは「うん、行こ」と返事をして、歩き出す。やけに上機嫌に歩く愛ちゃんに、私は聞いた。
「それで、すごいことって何?」
「あ、そうそう。今朝ね、」
 愛ちゃんの小さくて白い歯が、春の光を反射して、私の瞳を直撃する。私は、繰り返し瞬きをした。
「運命の人に出会ったの!」

 愛ね、起きたら家を出ようと思ってた時間だったから、最低限の準備だけして、急いで家を出たの。走らないと間に合わないなと思って、全力でダッシュしてたら、歩道の端っこで立ち止まってる男の人がいてね。何してるんだろう、って気が逸れた瞬間、何にもないのに地面に躓いちゃったの。で、愛が転んだ拍子に、その男の人に思いっきりぶつかっちゃって。でも、その人の目の前には電柱があったから、その人は電柱にぶつかって、愛だけが前にすっ飛んでいっちゃったの。
 それで、ここからなのよ。愛が地面に倒れてたら、すぐにその人が「大丈夫ですか?」って駆け寄ってきてくれてね。しかも愛が手を怪我してるのに気づいて、一瞬で消毒して絆創膏貼ってくれたの、すごくない? それでね、ありがとうって言わなきゃと思って、そこで初めてその人の顔を見たの。そしたらもうびっくり。だって、その人のおでこからたらーって血が垂れてるんだもん。自分の怪我は二の次にして相手の痛みを思いやってくれるなんて、そんな人いる?
 そこでね、愛、キュンとしちゃったの。この人は愛の王子様なんだって。でもね、愛は絆創膏持ってなくて貼ってあげられなかったし、そもそもこんなことになっちゃったのは愛のせいだしって思ったら、恥ずかしさと申し訳なさでわけわかんなくなっちゃってね。結局、すみませんでしたって叫びながら、その人のこと置いてきちゃったの。

「もしもう一度会えたら、ちゃんとごめんなさいっていうのになあ」
 愛ちゃんは溜め息をつきながら、さっき売店で買ってきた3個目のおにぎりを頬張る。新入生ガイダンスが行われる大教室は、徐々に席が埋まってきていた。
「それであわよくば、LINE交換できたらいいなとか思ってるんでしょ」
 私がにやつきながらそう言うと、愛ちゃんは思い切り噎せた。さっき買ってきたミルクティーでご飯を流し込むと、愛ちゃんはふうーと一息ついた。
「別にそんなことないもん。ただ謝りたいだけだもん」
 愛ちゃんは拗ねるようにそう言って、頬を膨らませる。私が「まあまあ」と宥めると、愛ちゃんの口からぷしゅーと空気が抜けた。
「ところで、その男の人ってどんな人なの? かっこよかった?」
 私が質問すると、愛ちゃんはうーんと小さく唸った。
「それがねー、あんまりちゃんと顔は見てないんだよね、おでこの怪我に目が行っちゃってさ。でも、全体的に落ち着いてる感じかな、なんか御曹司って感じだった。髪はそんなに長くなくて、黒縁の眼鏡かけてて、わりと丸顔で…あ、そういえばシャツはラコステの着てたかな。白い長袖のシャツ」
 けっこう覚えてるじゃん、と言おうとしたそのときだった。
「あー! お前、新入生だったのかよ」
 教室の後ろ、窓際のほうから、男性の大きな声が聞こえた。反射的にそちらに視線を送ると、ライダースジャケットにダメージジーンズという出で立ちの男性が、席についている誰かに話しかけているようだった。すると、話しかけられた側は即座に立ち上がり、さながら若手の営業マンのように、深々と頭を下げた。
「今朝の件につきましては、大変申し訳ございませんでした!」
 ぱりっとした男性の声が響き渡ったかと思うと、彼は旋毛が見えるほど深々と頭を下げる。そしてきっちり3秒後、その顔が上がった。
「ひとみちゃん」
 愛ちゃんは私の服の腕の部分をぎゅっとつまみながら、私に囁く。愛ちゃんはもう片方の手で、信じられないとでも言うように、自分の口を覆っていた。
「あの人だよ。今頭下げた人」
「え? 何が?」
「だから、今謝った人が、今朝私を助けてくれた――」
「うるっせえな、でかい声出してんじゃねえよ」
 ライダースジャケットは明らかに苛立った口調で、彼――愛ちゃんの救世主の肩を押す。救世主は2、3歩下がって窓際に追いやられながらも、なおも毅然とした表情で「申し訳ございません」と陳謝していた。いつの間にか教室全体には、静けさと緊張感が充満していた。
「お前、気に食わねえんだよ。ちっとも怖くなんかありませんよ、みたいな顔しやがって。どうせお前も心の中で、俺のこと見下してんだろ? いい加減に――」
「やめて!」
 愛ちゃんの声だった。教室全体の注目が集まる中、愛ちゃんはつかつかと揉めている二人のところに歩いていく。そして二人の間に割って入り、ライダースジャケットと対峙した。
「これ以上、この人のこと攻撃しないで。早くここから立ち去って」
 愛ちゃん…? 今自分が何言ってるか、わかってる…?
「は? お前、誰? こいつの知り合い?」
「知り合いかどうかなんてどうでもいい。とにかくここから立ち去って」
 愛ちゃんの言葉に、ライダースジャケットが舌打ちをする。それは、怒りのスイッチが入った音のように聞こえた。これはまずい。
「うるせえな、お前に用はねえんだよ。お前こそどけよ」
 ライダースジャケットは乱暴にそう言うと、横に愛ちゃんを突き飛ばす。抵抗できず倒れそうになる愛ちゃんを、私は走り込んで受け止めた。愛ちゃんの体は水風船のように柔らかくて、少しでも衝撃を与えたら破れてしまうほどの脆さを感じた。そして突き飛ばした男の顔を見た瞬間、私は涙腺にぎゅっと握られたような痛みを覚えた。
「…やめてよ。こんなの、ひどいよ」
 一筋の涙が頬を経由して顎に辿り着き、その先から滴り落ちて胸元を濡らす。目の前の男ははっとしたような顔で、その一部始終を見つめていた。
「…わかったよ。悪かったよ」
 男は消え入りそうな声でそう言うと、俯きながらその場を後にし、自分の席にどっかと座る。それが合図だったかのように、教室には話し声が戻り始めた。
「大変ご迷惑をおかけしました」
 窓際の救世主が私たちの目の前に歩み寄ってきたので、愛ちゃんは私の体に身を委ねるのをやめ、自分の脚で立つ。
「いやいやー、そんなことないですよ。今朝助けてもらったので、ちょっとだけでもお返ししたかっただけです」
 愛ちゃんはぎこちなさげに返事をする。その相手、愛ちゃんの救世主(はたまた王子様)の顔を、私は初めて正面から見た。失礼を承知で言うと、かっこよくないわけではなかったがかっこいいわけでもなく、率直な感想としては「凡人」だった。よくいる中学生男子のような髪形、眠たげな目、そんなに高くはない鼻。ただ、肌にはにきびどころか、髭を剃ったあとすらなかった。服装も、よく見てみるとラコステのシャツと黒いチノパン、白地に黒のナイキのスニーカーは、着慣れている中によく手入れされているという印象があった。
「そうですよね、あなたも今朝お会いした方だと思っていたんですよ。その後大丈夫ですか、まだ痛みはありますか?」
 元救世主(現凡人)が、愛ちゃんの目を見ながら質問する。前髪の間から、額に貼られた大判の絆創膏が見え隠れしていた。愛ちゃんは絆創膏が貼られた手をもう片方の手でこっそり触りながら、どぎまぎした様子で答える。
「いや、こっちは大丈夫です、すぐ痛みは引いたので。それよりも、あの…」
 愛ちゃんは目の前の(現)凡人の額を見る。(現)凡人は不思議な顔をしていたが、ああ、と気づいて自分の額に手をやった。
「ああ、私ですか。これしきのこと、私にはなんてことないですよ」
 微笑む(現)凡人に、愛ちゃんは「あ、それもそうなんですけど、」と手をばたばたさせながら言った。
「あの、お名前を教えてもらえないでしょうか…?」
 たしかに、そういえばまだ自己紹介をしていなかった。あまりにも急な出会いだったので、当然といえば当然だけども。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました、私ユイガジャクソンと申します。結ぶに謹賀新年の賀、j-a-c-k-s-o-nで結賀ジャクソンです。どうぞよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします。私の名前は、ウエタアイです。植えるに田んぼ、愛情の愛で植田愛です。それから、」
 愛ちゃんはそう言って、私のほうを見る。あ、今度は私のターンってことね。
「あ、はい、私は愛ちゃんの友人のヒトミチサトです。人を見る、数字の千に覚えるで人見千覚っていいます。どうぞよろしく」
 私が自己紹介を終えると、元凡人(現ジャクソン)は「植田さんと人見さんですね。よろしくお願いします」と言って、再び頭を深々と下げた。
「あ、私のことは愛って呼んで。愛も、下の名前でジャクソンくんって呼んでいい?」
 愛ちゃんがいきなり距離を詰めにいく。こういう愛ちゃんの積極性には、長い付き合いではあるけれど、毎回驚かされる。
「ええ、構いませんよ」
 ジャクソンが明るく返事をすると、愛ちゃんは「よかった~」と胸を撫で下ろした。
「それじゃあ、ジャクソンくん。愛ね、まだジャクソンくんにお返しし足りないと思ってるの。だからね、何か困ってることがあったらお手伝いさせてほしいんだけど、何かないかな?」
 愛ちゃんが、密かに一歩ジャクソンに歩み寄る。当のジャクソンは気づく様子もなく、うーんと呟きながら空を見つめていた。
「そんなことを申し出てくださるなんて、大変恐縮ですが…そうですね…」
 ジャクソンはしばらく黙り込む。愛ちゃんが辛抱強く待っていると、ジャクソンは何かを思い出したように「あっ」と言った。
「それでは、私には秘密の場所がございますので、そこについてきていただけないでしょうか」
 きんこんかんこん――新入生ガイダンスの始まりを告げるチャイムの音が、教室に鳴り響いた。

『ジャクソンくんごめん、今から行くね』
 講義棟をダッシュしながら、愛ちゃんがジャクソンにLINEを送ると、すぐに既読がついて、『かしこまりました』という返事が来た。ガイダンスが終わった直後、愛ちゃんはちゃっかりジャクソンのLINEをゲットしていたのだ。
「よかった、まだ待ってくれてるって。ごめんね、ひとみちゃんまで走らせて」
 斜め前を行く愛ちゃんが、私のほうを振り返りながら言う。本来ならもう少し早くジャクソンと落ち合えるはずだったのだが、愛ちゃんの入学手続きがどうもうまくいかず、だいぶ遅れてしまっていたのだ。
「ううん、それはいいんだけど。あのさ、私もついていっていいの? 邪魔にならない?」
 私が聞くと、愛ちゃんはぶんぶんと首を振った。
「邪魔なんてとんでもないよ。愛はひとみちゃんがいないと、半分くらい自信がなくなっちゃうんだから」
 私たちは講義棟の扉を駆け抜ける。「でも、」と私が言いかけた瞬間、門の前にジャクソンが立っているのが見えた。
「おーい、ジャクソンくーん」
 愛ちゃんが呼びながら手を振ると、ジャクソンは深々とお辞儀をする。そして程なくして、私たちはジャクソンのもとに辿り着いた。
「大変申し訳ございません、急用でもないのにこんなに急がせてしまって」
 ジャクソンが謝ると、愛ちゃんは息を切らしながら、またぶんぶんと首を振る。
「ううん、こっちこそいっぱい待たせてごめん。その秘密の場所は、今から行っても大丈夫?」
「ええ、いつでも構いませんよ。それでは、皆様の息が整いましたら、ご案内いたしますね」
 ジャクソンの言葉に、愛ちゃんは指でOKサインを作る。愛ちゃんが私に視線を送ってきたので、私も頷くと、ジャクソンは「かしこまりました」と返事をした。そして私たちは、だいぶ人影のまばらになった道へと、歩き出していった。
「ジャクソンくんはさ、今どこに住んでるの? 一人暮らし?」
 愛ちゃんは私のグレーのコートの裾を掴みながら、前を歩くジャクソンに話しかける。今日一日の情報量が多すぎて忘れそうになるが、私たちはまだお互いのことを何も知らないのだ。
「いえ、品川のマンションに家族で住んでいます。家から大学までは1時間ほどかかりますが、一人暮らしをするほどでもないと思うので。お二人はどうですか?」
「愛たちはね、この大学に入ったのをきっかけに二人とも一人暮らしを始めたの。ね?」
 愛ちゃんが私の顔を覗き込んで、会話への参加を求める。品川のマンションに住んでいる話は深掘りしたかったが、それもなんだか下世話な気がして、とりあえず「うん」とだけ返事しておいた。
「ひとみちゃんってば、せっかく同じアパートに空き部屋が2つあったから、一緒のアパートに住もうって言ったのに、『いや、それは駄目』とか言って。お互い入り浸るようになってよくないからとか言うけど、10分離れたアパートに住むだけでそんなに変わると思う?」
「いや、全然違うよ。私たちももうすぐ大人なんだから、一人で生きていけるようにならなきゃ」
「えー、そんなこと言われたって、急にひとみちゃん離れなんてできないよう。愛たち、ずっと友達だと思ってたのにい」
 泣き真似をしながら腕を組んでくる愛ちゃんに、「もー」と溜め息をついていると、前方からくすくすと笑う声が聞こえた。
「たいそう仲がいいんですね、お二人とも。なんだか微笑ましいです」
 ジャクソンがこちらを振り返って、慈しむような眼差しで私たちを見てくる。愛ちゃんは一瞬私の腕にぎゅっとしがみついたものの、すぐにその力を緩めて、再びジャクソンと話し始めた。
「そりゃそうよ。だって愛たち、幼稚園からの付き合いだもん。だから、えっと…今年で何年目?」
 指折り数えようとしている愛ちゃんが私のほうを見てきたので、15年目でしょ、と言おうとした、その瞬間だった。ジャクソンは突然足を止め、私たちのほうに回れ右をした。
「ご足労おかけいたしました。ここが、私にとっての秘密の場所です」
 私たちの横を、乗用車や歩行者が通り過ぎていく。ジャクソンが「秘密の場所」だと言っているのは、ただの歩道だった。比較的交通量の多い道路と小学校の敷地に挟まれた、わりと幅の広い歩道で、その端には何の変哲もない電柱が立っているだけだった。
「あの、ここは…」
 私はクエスチョンマークでいっぱいの頭を抱えながら、愛ちゃんのほうに視線を送ると、愛ちゃんは目を見開き、両手で口を覆っていた。え? どういうこと?
「…今朝、愛たちが出会った場所ですよね」
 普段はやたらと身振り手振りの多い愛ちゃんが、微動だにしないまま、低く掠れた声で言う。その声に、ジャクソンはゆっくりと頷いた。
「ええ、そうです。実は私、ここで運命の出会いをしてしまったんです」
 ジャクソンの声に緊張が混じっているのが、手に取るようにわかる。ん? 何だこれ? もしかして私、やっぱりもの凄くお邪魔者じゃない?
「こんなにも早く愛してしまうなんて、自分でも驚きが隠せません。いくらそれが真実の愛だと言い張っても、もしかしたら理解していただけないかもしれません。でも私は、自分の気持ちに嘘はつけないんです」
 そう決然と言い放ったジャクソンは、顔を赤らめながら、電柱のほうを向く。愛ちゃんも恥ずかしさのあまり、自分の袖にふんだんについたフリルを握りしめながら、小学校のほうを向いている。私はただ、そんな愛ちゃんを見守ることしか、できなかった。
「愛しています。ずっとあなたの傍に、いさせてください」
 言っちゃったー。私は思わず、ぎゅっと目を瞑る。そして愛ちゃんは、喜びを隠しきれないような声で、返事を――しない。いつまで経っても、しない。いったい、何が起こっているんだ…? 私は意を決して、おそるおそる目を開けた。
 愛ちゃんは、絶望の底にいるかのような顔で、何かを見ていた。私はその視線を、至極ゆっくりと追う。その先にいたのは、まるで壊れ物に触れるかのような手つきで電柱に触れている、ジャクソンの姿だった。そして、私の脳内でクエスチョンマークを堰き止めていた堤防が、ついに決壊した。
「あのー、ジャクソンくん、それは…」
「ああああ大変申し訳ございません、いくら愛しているからといっていきなり触れるなんて不躾の極みですよね、でんちゃんにも嫌がられるかもしれませんし」
 ジャクソンは早口で言いながら、電柱に触れていた手をさっと引っ込める。一度決壊した堤防は、元には戻らない。
「えーと、…でんちゃんというのは?」
「ええ、この子のお名前です。お名前まで可愛らしいですよね」
 そういうジャクソンの手は、傍らの電柱を指している。何かの見間違いかと思って、何度も強めに瞬きをしてみたが、どうも私の網膜は正常に機能しているらしい。私が「あ、はは」と愛想笑いをしようとした瞬間、愛ちゃんがずいっと一歩前に出た。
「そうなんだ、とっても可愛いね! ジャクソンくんは、でんちゃんのどんなところが好きなの?」
 愛ちゃん…? あなた、どういうつもりなの…?
「ええ、まずはこの円柱形のフォルムですね。とてもデリケートな円さと、どこか頼りない細さが、私の庇護欲を掻き立てるんです。それから、なんといってもこの高身長。あまりにも高すぎて頭を撫でさせてはもらえませんが、そのもどかしさがまたいいんですよ。そして極めつけは、あの黒地に黄色のカバー。安易に近づいてはいけない雰囲気を醸し出していて、とてもミステリアスなんですよね」
 電柱の好きなところをこんなにもすらすら言えるお前のほうがよっぽどミステリアスだけどな。
「私、基本的にありとあらゆるもの、森羅万象を愛しています。それは道端の花であったり、夜空の星であったり、本当に全てです。でも今朝、でんちゃんに額をぶつけたとき、心で感じたのです。私たちは『一つ』になったのだと。この傷は、その契りを交わした証なのだと」
 ジャクソンはそう言いながら、愛おしげに額の絆創膏に触れる。
「ですから、愛さんは私にとって、でんちゃんと引き合わせてくださったキューピッドなのです。何と言ったらよいのかわかりませんが、とにかく今は感謝を伝えさせてください。本当に、ありがとうございます」
 ジャクソンの深々としたお礼に、愛ちゃんは黙り込む。そうだよね愛ちゃん、私も何て言ったらいいのかわからないよ。
「…いやいや、私がしたことなんて、大したことじゃないよ。それより、今日のところはここまでにしない? 初日からいきなりぐいぐい距離詰めすぎちゃうと、でんちゃんも引いちゃうかもしれないしさ」
 数秒の沈黙ののち、愛ちゃんが帰宅を促す。初日から想い人のLINEをゲットしている人が言える台詞かといわれると甚だ疑問だが、今はそんなことはどうでもいい。とりあえず一旦、頭の整理がしたい。
「そうですよね、こんなに親身になって助言を下さるなんて、愛さんは本当に優しい方です。お引き止めして申し訳ございませんでした、それでは行きましょうか」
 ジャクソンは少し名残惜しそうに電柱を一瞥してから、私たちのほうを見る。
「うん、行こ行こ! とは言っても、愛たちはすぐそこの角で曲がるんだけどね」
 愛ちゃんはそう言って、たたたっと住宅地へと続く道の入り口まで駆けていく。私も早歩きで愛ちゃんの後を追い、愛ちゃんの隣に並んだ。
「それでは、初日からありがとうございました。なんだか私、お二人のおかげで、幸せな大学生活になりそうです」
 ジャクソンは顔を綻ばせながら、軽くお辞儀をする。そして、「それでは」と言って天皇陛下のように手を振ると、駅のほうへと歩き出した。愛ちゃんはその後ろ姿に向かって、「バイバイ、また会おうねー」と朗らかな声で言いながら、大きく手を振った。そして、ジャクソンの姿が見えなくなった。
 変な人だったね。そう言おうとして愛ちゃんのほうを見ると、愛ちゃんも私のほうを見ていた。その目は明らかに、闘志に燃えた目だった。
「ひとみちゃん、今日はうちで作戦会議だよ。絶対にジャクソンくんを振り向かせてみせる」

「こんなことってある~?」
 愛ちゃんはマイメロディ柄の座椅子の背凭れに身を委ね、天井を眺める。1週間前に入居した愛ちゃんの部屋には、まだ段ボールが積み上がっていたが、ベッド(「おねがいマイメロディ」に登場するキャラクターの人形がぎっしり置いてある)とドレッサー(PAUL&JOEで購入したメイク道具が所狭しと並べてある)は完成しており、テーブルにも花柄のテーブルクロスが引かれていた。
「だってさ、運命の相手だと思ってた人が、また別の運命の相手に出会っちゃうなんて、そんなの残酷すぎない? しかもさ、よりによってその相手の出会いをアシストしちゃうなんて。皮肉すぎるよー」
 愛ちゃんは悲痛な面持ちで言いながら、拳で膝をぽんぽん叩く。自分の好きになった人が電柱に向かって本気で「愛しています」なんて言っているほうがよっぽど残酷な気がするのだが、なぜか愛ちゃんはそこは気に留めていないようなので、とりあえず私は「うーん」と言いながら、マグカップに入ったココアに口をつけた。
「で、どうするの? 作戦会議ってことで来たけど、何か目途は立ってるの?」
 私はクロミちゃん柄の座椅子に凭れながら、悲嘆に暮れる愛ちゃんに聞いてみる。「やっぱりあんな変な奴を好きになっちゃったなんて、どうかしてたよ。今日のことは、きれいさっぱり忘れることにしようかな」なんて言ってくれないかなと思っていたが、そんな淡い期待は一瞬にしてどこかへ吹き飛んでいった。
「目途は立ってないけど…でも、何とかしてジャクソンくんを振り向かせたいの! ひとみちゃんどうしよ、何かいい案ないかなあ」
 いい案? あるよ! 相手を変えればいいと思う! ――なんて言い出せる雰囲気ではそうそうない。とはいえ、仮にジャクソンの気を引くというアプローチで案を出そうにも、効果のありそうな方法なんて見当もつかない。八方塞がりになった私は、とりあえず適当なことを言ってみることにした。
「うーん、じゃあ、愛ちゃんが電柱に勝てそうなところを挙げていけばいいんじゃない?」
 鳩に豆鉄砲、という諺を体現するように、愛ちゃんは全身の動きを止め、まんまるな目をさらに丸くした。それは…、どういう反応?
「やっっっぱりひとみちゃんはさすがだね! 名案だなあ、愛だったら思いつかないよ」
 愛ちゃんはぱあっと目を輝かせながらそう言うと、さっそくバッグからペンと手帳を取り出して、『打倒でんちゃん! 大作戦』と書き込んだ。まさかこの子…電柱と真っ向勝負しようとしてるのか…?
「えーと、まずでんちゃんのチャームポイントは…」
 私が呆然としているのをよそに、愛ちゃんはうんうん唸りながら、ジャクソンが電柱を愛する理由を書き出していく。程なくして、愛ちゃんは「たしかこんな感じだったよね?」と言いながら、私に作戦ノートを見せてきた。

・円柱形(まるくてデリケート、細くて頼りない)
・高身長(てっぺんに手が届かなくてもどかしい)
・黒と黄色のカバー(安易に近寄りがたい雰囲気)

「うーん…たぶん合ってるんじゃないかな」
 正直、ジャクソンの言っていたことは理解の範疇を超えていたので、あまりよく覚えてはいないが、電柱の特徴として間違ってはいないだろう。ただ、電柱を見て「デリケートだ」とか、ひいては「もどかしい」とかいう感情を抱くような人に今まで出会ったことがなかったので、そのへんはもう愛ちゃんの記憶に丸投げしよう。
「よし、そしたらさっそく一つ目から検討するか。まず愛は円柱形じゃないから…」
「ちょ、ちょっと待って。愛ちゃん、本気でそのアプローチでいくつもり?」
 愛ちゃんが本当に作戦を開始しそうになったので、私は思わずテーブルに手をつき、身を乗り出す。すると愛ちゃんはおもむろに手帳をテーブルに置き、同じく身を乗り出して、額どうしをくっつけた。今までのは、冗談だったんだよね…? お願い、冗談だと言って、お願いだから――
「ひとみちゃん。相手はね、手強いよ。ちょっとやそっとじゃびくともしないの。だからね、真剣に勝てるところを探しにかからなきゃ」
 こりゃ駄目だ。私はへなへなと座椅子に座り直し、「へへ、だよね」と言った。自分の言葉でスイッチが入ったのか、愛ちゃんはより真剣な表情になり、再びペンと手帳を手にした。
「じゃあ改めて一つ目からだね。愛は円柱形じゃないから、デリケートでも頼りなくもないけど…でも、電柱は愛みたいに、ぎゅっとしても柔らかくないし、あったかくもないよね!」
 そうだよね、みんな違ってみんないいよね。泣きそうになりながらそんなことを考えている私を尻目に、愛ちゃんは「円柱形(まるくてデリケート、細くて頼りない)」の横に、「ぎゅっとしたら柔らかい、温かい」と書き留める。
「次は…高身長、てっぺんに手が届かなくてもどかしい、か。えー、これは無理じゃない? だって、どんなに嵩上げしてもでんちゃんには勝てないもん。どうしよ…詰んだかな…」
 先ほどの朗らかな顔から一転、愛ちゃんの顔に絶望が滲む。私はとりあえず黙って愛ちゃんの顔を見ていたが、ややもすると絶望が涙となって滴り落ちそうになっていたので、思わず助け舟を出してしまった。
「…いや、ちっちゃいほうが、いいんじゃないかなー。わざわざもどかしい思いをするよりも、そばにいてさりげなく撫でてあげられるほうが、ジャクソンくんも嬉しいと思うけど」
「やっぱりそうだよね!? 本当はジャクソンくんも撫でたいんだよね!? 全くもう、素直になればいいのにさあ」
 愛ちゃんが食い気味に同意すると同時に、その顔から陰りが雲散霧消する。よく考えてみると、今私が言ったことは、怖いのが好きでお化け屋敷に行く人に、他人が「やっぱり怖くないほうがいいから」と言ってお化けを一掃するのとあまり変わらない気がするのだが、どうやら愛ちゃんは納得したようで、「高身長(てっぺんに手が届かなくてもどかしい)」の横に「ちっちゃいほうが撫でられる」と書き留めた。
「さて、最後は…黒と黄色のカバー、安易に近寄りがたい雰囲気、か。でもなー、ちょっとジャクソンくんとは仲良くなっちゃったしな。やっぱり親しみやすいのかなあ」
 全身真っ黒のゴスロリファッションが何か言っているが、ジャクソンみたいな変人にとって親しみやすいも何もないだろう。そもそもジャクソンに友達はいるのか? おそらく嫌な奴ってわけじゃないだろうけど――と私が考えを巡らせている間に、愛ちゃんは押し入れを漁る。
「あ、これとかどうかな? より近寄りがたくない?」
 そういって愛ちゃんが取り出したのは、ボルドー色のドレスだった。腰から下はさらに黒いレースで覆われており、スカートの裾には薔薇の刺繍が施してある。…なるほどね、信号でも黄色より赤のほうが「止まれ」の意思が強いもんね。
「…うん、いいんじゃないかな」
 いつしか私は全てを力づくで理解するようになっていた。「よし、じゃあ勝負服はこれにしよ」なんて言いながらうきうきしている愛ちゃんを遠目に見ながら、私はすっかり冷めて甘ったるくなったココアを飲み干した。
「コップ、申し訳ないけどシンクに置いとくねー」
 私がそう言って、マグカップを持ってキッチンのほうに向かおうとすると、いきなり愛ちゃんが私の前に立ち塞がる。満面の笑みを浮かべる愛ちゃんに「どうしたの?」と聞くと、その笑顔のまま愛ちゃんは答えた。
「これだけやれば、でんちゃんに勝てるかな? ジャクソンくんにも、愛の気持ち伝わるかな?」
 私は、愛ちゃんの瞳の奥を覗く。どこまでも澄んだ瞳が、そこにはあった。私はふっと微笑むと、愛ちゃんの頭をそっと撫でた。
「愛ちゃんは可愛いんだから、対策なんてしなくても大丈夫だよ」
 私はそう言うと、愛ちゃんの横を通り過ぎ、まだ底に溶け残ったココアがへばりついているマグカップに水を注ぐ。
「えー、ひとみちゃんにそんなこと言われると照れるなあ。あ、ひとみちゃん、今日は一緒にお風呂入る? お背中流しますよ」
 愛ちゃんの嬉しそうな声が聞こえる。私は蛇口を捻り、流れる水を止めた。
「入んないよ、二人入れるような広さじゃないでしょ? 作戦も決まったことだし、今日のところは帰るね」
 私はそう言いながら、自分のコートとバッグを回収し、玄関へと向かう。「えーいいじゃーん」と愛ちゃんが不満げな声を上げたときには、私はパンプスを履いていた。
「じゃあ明日も教科書販売とかあるし、学校でね。寝坊しちゃ駄目だよ」
 私の忠告に、愛ちゃんは肩を窄めながら、「はあーい。また明日ね」と笑ってごまかす。そして私が部屋を出ると、ドアは音もなく閉まり、僅かにかちゃり、という鍵を閉める音が聞こえた。
 もう桜の季節だというのに、太陽が沈んだ後は少し肌寒い。私はここから10分の家路を耐え忍ぶために、小脇に抱えていたコートを着て、歩き出した。

『ジャクソンくんごめん、今から行くね』
 講義棟をダッシュしながら、愛ちゃんがジャクソンにLINEを送ると、すぐに既読がついて、『かしこまりました』という返事が来た。これ、デジャヴだな。
「よかった、まだ待ってくれてるって。ごめんね、昨日に引き続き」
 斜め前を行く愛ちゃんが、ボルドー色のドレスの裾をはためかせながら、私のほうを振り返って言う。昨日私が帰ったあと、愛ちゃんはさっそく翌日の放課後に会う約束をジャクソンに取りつけていたのだが、今日の愛ちゃんは教科書を買うだけのお金が足りず、一時帰宅やら何やらしている間に、こんな時間になってしまったのだ。
「ううん、それはいいんだけど、」
 あのさ、私もついていっていいの? 今日は確実に、私が邪魔になるシーンが来るよね? ――そう続けようかとも思ったが、余計なことを言うのはやめた。そういうシーンになったら、私はしがない電柱のふりをしておこう。
 私たちは講義棟の扉を駆け抜ける。昨日と同じように、門の前にジャクソンが立っているのが見えた。
「おーい、ジャクソンくーん」
 愛ちゃんが呼びながら手を振ると、ジャクソンは深々とお辞儀をする。そして程なくして、私たちはジャクソンのもとに辿り着いた。
「連日申し訳ございません、こんなに走らせてしまって」
 ジャクソンが謝ると、愛ちゃんはぶんぶんと首を振り、「お待たせ、」と息も切れ切れに言った。買ったばかりの教科書はずっしりと重く、私も息が上がってしまっていた。
「あの、お持ちいたしますよ」
 一瞬でへとへとになってしまった私たちに、ジャクソンは平然と声をかける。別にいいよ、と遠慮する間もなく、ジャクソンは私たち二人から教科書が入った袋をさっと奪い取っていった。
「え、ジャクソンくんの分もあるんだからいいよ、私のは自分で持つよ」
 私が教科書を取り返そうとすると、ジャクソンは静かに首を振った。
「いえ、この教科書の重みも、まるで知識の重みを感じているようで、愛おしいですから。皆様の息が整うまでは、お待ちしますよ」
 さすが万物を愛する男。そう思いながら愛ちゃんを横目で見ると、恋する乙女は完全にジャクソンに見入っていた。こりゃ駄目だ、と思いながら私がしばらく大袈裟に深呼吸をしていると、愛ちゃんも正気に戻ったようで、慌てて私に倣って深呼吸を始めた。
 そのあとも「私が持ちます」「いや、私が持ちます」の応酬があったものの、結局3袋ともジャクソンが持ったまま、私たちは歩き出した。わかっている、こいつは悪い奴ではないのだ。ただちょっと変なだけで、むしろ私の意思次第では仲良くなれるかもしれない。そんなことを考えながら、私は男らしさが微塵も感じられないジャクソンの後ろ姿を眺めていた。
「そういえばジャクソンくんってさ、兄弟はいるの? 家族と住んでるって言ってたよね?」
 唐突に愛ちゃんが切り出す。今日の愛ちゃんは、私と腕を組むことなく、淡々と歩いている。
「いえ、一人っ子です。従兄弟も一人もいないので、小さい頃は寂しかったですね。愛さんはどうですか?」
「愛もね、従兄弟はいるけど一人っ子だよ! だからね、その寂しさちょっとわかるな。昨日もひとみちゃんが帰ったあと、なんか寂しかったもん」
 たしかに、愛ちゃんは昔から寂しがりだった。いつも私の後ろをついて歩くから、あるとき「金魚の糞みたいだね」って言ったら、怒られたっけなあ。
「ああ、昨晩は人見さんとご一緒だったんですね。人見さんはどうですか、ご兄弟は?」
 ジャクソンが私に話を振ってくる。ずっと教科書を持ってもらって申し訳ないな、と思いながら答えようとすると、そこに愛ちゃんがカットインした。
「はいはーい、じゃあこれクイズにしよ! ひとみちゃんは、どんな兄弟構成でしょうか! 3、2、1…」
 突然のカウントダウンに、さすがのジャクソンも少し戸惑ったようだったが、すぐに顎に手をやったあと、「ピンポーン」と言いながら早押しボタンを押すジェスチャーをした。
「私のアンサーは、二人姉妹のお姉さんですね。妹がいて…4歳下ではないですか?」
 鋭い答えに、私たちは思わず揃って「おお~」と声を漏らす。
「ほぼ正解。ひとみちゃんは、妹がいるお姉ちゃんで、妹は3歳下でした。すごいニアピンだったね、なんでわかったの?」
 愛ちゃんが少し興奮したように聞くと、ジャクソンは再び顎に手を当てながら言った。
「いえ、そのような気がしたんですよ。なんだか人見さんの雰囲気は、でんちゃんに似ているような気がして。でんちゃんも、元来しっかり者といった感じで、しかもとても真っ直ぐで――」
 いや、私は電柱に似てんのかい。やれやれ、と思いながら愛ちゃんのほうを見ると、愛ちゃんも私のほうを見て、泣きそうな顔になっていた。そうだよね、私も理由は全く違うけど、泣きたくなるのは一緒だよ、と思いながら愛ちゃんの顔の真似をしていると、突然ジャクソンの背中にぶつかった。
「あ、ごめんごめん。どうしたの?」
 私が声をかけても、ジャクソンは微動だにしない。いったい何なんだ、と思いながら、私はジャクソンの肩越しに歩道の先を見た。
 何か黄色いものに、電柱が囲まれている。それがそんじょそこらの電柱であれば、何ら問題はなかったのだろうが、その電柱の横には、小学校の校舎が聳え立っているのが見えた。――間違いなく例の電柱だ、と気づいたときには、ジャクソンは駆けだしていた。
「待って、ジャクソンくん」
 ジャクソンの後を追う愛ちゃんの後を、私も慌てて追いかける。そしてその電柱の目の前に辿り着いたとき、事態の全貌が明らかになった。
『電線類の地中化工事を行っています』
 この辺り一帯の電柱の周りは、「安全第一」と書かれた黄色と黒の柵で囲まれており、その柵の前に置かれた看板に書いてあったのが、それだった。工事自体はまだ始まっていないのか、作業員がちらほらと見受けられるばかりで、あとはその看板の横に置かれた作業員のパネルが、妙に穏やかな表情でお辞儀をしていた。
 何も言えないまま、ジャクソンのほうを見る。ジャクソンはその場に頽れ、地面に落ちた袋からは、教科書が何冊かはみ出していた。これはジャクソンにしてみると、どういう状況ということになるのだろう。自分の愛している電柱が、何週間後かには地中に埋められ、触れることもできなくなる。その事実を知ったところで、自分には何もできない――ああ、そうか。これ、余命宣告なんだな。目の前の柵は腰ほどの高さしかなかったが、それ以上に高い障壁となってジャクソンに立ちはだかっていることを、私は思い知った。
 通行人の奇異な視線を感じながら、動けないでいるジャクソンを見下ろしていると、愛ちゃんはジャクソンの傍に行き、しゃがみこんだ。そして小さな赤ん坊をあやすように、一定のリズムでジャクソンの頭をぽんぽんと叩き始めた。
「辛いよね。こんなのって、ないよね」
 ああ、愛ちゃんって、こんなに人を包み込むような声出せたんだ。こんなに一緒にいるのに、今まで聞いたこともなかった。
「…代わりになんてならないだろうけど、愛のこと、ぎゅっとしても」
 ぎゅっとしてもいいよ、と言い切る前に、ジャクソンは強く首を振る。ジャクソンの頭を叩く手が一瞬止まったが、また愛ちゃんの手は一定のリズムを刻みだす。愛ちゃん、愛ちゃんの気持ちもわかるけど、たぶん今じゃないんじゃないかな。
「…そっか。頭ぽんぽんされるのも、ちょっと嫌?」
 愛ちゃんの言葉に、ジャクソンは再び首を横に振る。
「本当に申し訳ございません。すでに多大なるご迷惑をおかけしていることは、重々承知です。それにもかかわらず慰めていただいてしまうなんて、私はなんて…」
 ジャクソンの絞り出したような声が、不意に途切れる。それと同時に、ジャクソンの肩が小刻みに震え始めた。その震えを感じたのか、愛ちゃんは頭をぽんぽんしていた手を止める。そして、ジャクソンの短い髪をくしゃっと掴みながら、愛ちゃんは言った。
「ううん。あのね、頭を撫でてるときって、人は幸せな気持ちになれるんだよ」
 私は何も言うまいと、強く下唇を噛む。その言葉はきっと、ダイナマイトだ。愛ちゃんは慰めるつもりで言ったのだろう、私に迷惑はかかってないから気にしないで、と。でもジャクソンにとってそれは、自分が目の前の愛する相手の頭を撫でる未来を、見る影もないほどに粉砕する言葉なのだ。でも私がそれを指摘したところで、何か状況が変わるわけでもなかった。
「…そうですよね」
 愛ちゃんの言葉に、ジャクソンはぽつりと呟くようにそう言った。程なくして、肩を震わせていたジャクソンから、遠慮がちに鼻水を啜り上げる音が聞こえる。私が愛ちゃんを介してジャクソンにティッシュを渡すと、ジャクソンは小さな声で「すみません」と言いながら1枚だけ手に取り、洟をかんだ。そして大きく息を吐くと、ジャクソンはおもむろに立ち上がり、私たちのほうを向いた。
「取り乱してしまい、申し訳ございませんでした。ここにずっといるわけにもいかないので、そろそろ行かなければなりませんね。こんなことなら、もっと触れ合っておけばよかったのですが」
 ジャクソンはそう言いながら、ぎこちなく笑う。ジャクソンにしてはまともなことを言うなあと思いつつ、私は立ち上がった愛ちゃんと顔を見合わせながら、とりあえず笑ってみる。思わぬ形ではあったけど、まあ一件落着かな。そう思った瞬間だった。ジャクソンはふと何かに気づいたように真顔になり、もう一度電柱のほうに向き直った。
「…まだ触れ合えますよね?」
 作業員は少し遠くにいて、こちらの様子には気づいていないようだった。工事自体も、これから使うと思われる土嚢が積み上げられているだけで、まだ本格的に始まってはいなかったし、電柱を囲っている柵も、容易に飛び越えられるほどの高さだった。――ジャクソン、お前、何しようとしてる。
「でんちゃあああああん」
 ジャクソンは叫ぶや否や、柵を飛び越え、目の前の電柱と熱い抱擁を交わした。号泣しながら電柱に頬擦りするその姿に、一瞬でもこの男と仲良くなれるかもしれないと思った自分を恥じた。
「ジャクソンくん、勝手に工事現場に入っちゃ駄目だよ。早く戻ってきてよう」
 愛ちゃんはジャクソンに呼びかけながら、涙を流す。そうか、愛ちゃんにしてみれば、これは残酷なイチャイチャを見せつけられているのだ。愛ちゃんの頬を伝うのは、涙の形をした電柱への嫉妬なのだ。…と理解しようとしてみても、やっぱりもったいない涙だと思うけどなあ。
「すみません、すみません…でも、でんちゃんの頭を撫でるまでは、やっぱり戻れないんです」
 なおも激しく頬擦りを続けながら、ジャクソンが言う。そんなに擦ったら痛そうだけど、でもジャクソンのことだから、「この痛みも愛の証です」とか言っちゃうんだろうな。…ああ、なんか思考がジャクソンに寄ってきてるな。
「無理だよジャクソンくん、だってでんちゃんの身長は10mくらいあるんだよ? 絶対届かないよ」
 身長1.5mの女の子は、どうにかしてジャクソンを引き留めようと説得する。その言葉に、ジャクソンはこちらをひたと見据えながら、決然と言い放った。
「無理なことなんてありません。私、登りますから」
 うそ、と思ったのも束の間、ジャクソンは本当に電柱を攀じ登り始めた。最初は登ろうとするたびにずり落ちていたが、だんだんこつを掴んできたのか、その体は着実にてっぺんへと向かい始めた。
「待ってジャクソンくん、本当に危ないって、下りてきてよ」
 愛ちゃんの声色が、完全に悲哀から心配に切り替わった。柵を跨ぎ越えようとする愛ちゃんを、「ちょっと愛ちゃん、」と引き留めようとするも、愛ちゃんは聞く耳を持たない。柵の中に踏み込んだ愛ちゃんは、電柱の真下まで行って、ジャクソンに呼びかけ続けた。
「ねえ、ジャクソンくんってば」
「でんちゃん、今行くからね、なでなでするからね」
 私はジャクソンが登った先を見上げる。てっぺんのほうからは、何本もの電線が伸びていた。この勢いだと、もしかしたら本当にジャクソンはあそこまで到達してしまうかもしれないが、そこにいったい何ボルトの電流が流れているのか、ジャクソンは知っているのだろうか――と思いながら地上に視線を戻した瞬間、私は思わず「えっ?」と言ってしまった。
「愛ちゃん、何やってんの?」
 愛ちゃんも、電柱を登ろうとしていた。いやいや、ちょっと待ってよ。
「だって、助けにいかなきゃ。あのままだとジャクソンくん、大変なことになっちゃうよ」
「いや、わかるけどさ…」
 私はそう言いながら、しぶしぶ柵を跨ぎ越える。とりあえず愛ちゃんだけでも電柱から引っぺがさなきゃ。そう思った瞬間だった。
 強い春風が、ぶわっと道を通り抜ける。はっ、と思った私は、反射的に上を見上げていた。桜の花びらとともに風に舞い上がるジャクソンの背中が、そこにはあった。
 舞い上がった花びらは、どこかへと落ちていく。
 私は何も考えずに腕を広げた。いくらジャクソンが電柱を愛するような奴で、世の中の常識から外れた存在だとしても、重力という物理法則から外れることはできないことを、私は知っていた。そしてその背中が迫ってくるのを、私はぎゅっと目を閉じて待ち受けた。
 ぼんっ、という音と同時に、腰に衝撃が走る。あれ、でも落ちてきた男性を受け止めたにしては、思ったより大きな衝撃じゃなかったな。そう思いながらおそるおそる目を開けると、視界の大部分がジャクソンの背中で占められており、残った視界の中に、積み上げられていた土嚢が映った。
 とりあえず助かった、と思いながら、私はジャクソンの背中越しに愛ちゃんを見る。愛ちゃんは、喜びと悲しみが入り混じったような複雑な表情で、ジャクソンの腰のあたりを見つめている。その瞬間、私はジャクソンを後ろから抱きかかえた格好になっていることに気がついて、慌てて腕を解いた。
「愛ちゃん、あの、これは」
 私が弁明しようとすると、愛ちゃんは「ううん」と首を振る。そしてこちらに歩み寄ってきた愛ちゃんは、しゃがみこんでジャクソンの頬をぺちぺち、と叩いた。
「…気絶してる」
 そう言われた瞬間、途端にジャクソンの体が重く感じる。ああ、全くもう。
「なんでこうなるのおおおおお」
 遠くのほうから、「大丈夫ですかー」と今更ながら駆けつけてくる作業員の声が聞こえてくる。4月の初め、桜が人々の新たな出会いを祝福する頃のことであった。

 講義棟を出ると、目の前の広場には桜色の絨毯が敷き詰められていた。4月も半ばになれば、桜はほとんど散ってしまっている頃だが、これはこれで儚く、美しい光景だ。僕は立ち止まり、この光景を写真に収めようと携帯を取り出すと、画面にLINEの通知が届いていた。
『うえた あい
ジャクソンくん、いつものとこいるよ! おなかすいたから早く来て~』
 1週間ほど前、僕は愛さんから想いを告げられた。講義棟の横にある森の中に呼び出されたので行ってみると、そこにはやはりゴシック・アンド・ロリータファッションに身を包んだ愛さんと、(少し離れた木の陰におそらく隠れようとしている)人見さんがいた。そこで愛さんから、好きです、恋人になってください、と告げられた。
『愛さんの気持ちは、心から嬉しいです。でも、私と交際するのは、やめておいたほうがいいと思います』
 僕の返事に、愛さんの表情が翳る。だから僕は、慌てて続けた。
『私は基本的にありとあらゆるもの、森羅万象を愛しています。それは道端の花であったり、夜空の星であったり、本当に全てです。ですからほんの少しのきっかけで、私は新たな相手と「一つ」になったと錯覚してしまうのです、まさにでんちゃんのときのように。そのでんちゃんに会えなくなったとはいえ、こんな移り気で不埒な相手に、愛さんの貴重なお時間を割かせるわけにはいきません』
『…そっか。博愛主義者? って言うのかな、そういう人のこと。ジャクソンくんも、大変なんだね』
『博愛主義者ですか、もしかしたら広義にはそうかもしれません。いずれにせよ、私が浮気者であることに、変わりはありませんが』
 僕の言葉に、愛さんはしばらく俯いて黙り込んでいた。しかし、次に愛さんが顔を上げたときには、その顔はさながら太陽のように、眩い光を放っていた。
『じゃあさ、友達になるのはいいよね? 愛たちは入学したばっかりなんだから、友達としての出会いは大切にしていこうよ』
 その翌日から、僕は愛さんと人見さんと、学生食堂のテラス席でランチを食べるようになった。もちろん人見さんには、でんちゃん事件(落下して下敷きにしてしまった件)のことを平謝りした。それ以降、人見さんは僕のことを『ジャクソン』と呼び捨てにするなど、多少ぞんざいに扱うようになったが、それはそれで親密度が上がったということで、個人的には喜ばしい変化だった。
 僕は愛さんから来ていたLINEに『かしこまりました、至急参ります』と返事をし、桜色の絨毯を突っ切って駆け抜けようとする。そして、ちょうど絨毯の真ん中辺りに差し掛かったときだった。
 あなた、ずいぶんと楽しそうね。
 春風は絨毯を巻き上げ、僕の真っ白なシャツにたくさんの桜の花びらを飾りつけながら、茶目っ気たっぷりに語りかける。「ええ、とても」と僕は小声で返事をしながら、そのまま走り続けた。少し先のほうでは、桜塗れの僕を指さして二人組が笑っている。僕はゆったりと手を振りながら、その弾けるような笑顔のもとへと向かっていった。
 春風が、桜の花びらをどこかへと運んでいく。その行き先は、誰も知らない。

〈完〉

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?