ホラーマンは君さ、元気を出して

小学生の頃、「一人勉強」という所謂自主学習を毎日ノート2ページ分行うことになっていた。どんな学習でもよかったので、私は漢字を書き連ねるか、市区町村の形を羅列するか、挙げ句果てに小説を書くか、そのいずれかしかしていなかった。当時の私の辞書に、「まんべんなく」という言葉はなかったのかもしれない。
興味のあることには全力を尽くせるが、興味のないことには無理をしないと力を注げない子供は、結局そのまま社会人になってしまった。それでも、自分が興味を持っている範囲内の仕事に就けたはずだったので、一抹の不安を抱えつつも、なんだかんだ大丈夫だと思っていた。
不安は不安のままだった。できないことはできず、しているつもりの努力は努力にカウントされるものではない。先輩に少しだけ不安げな顔で「何か経験として残るものがあると感じてる?」と聞かれて、自分が話せば話すほど、話せない真実は輪郭を露呈していった。

興味があることに携わっていることよりも、興味があることを扱っていることのほうが、自分にとって遥かに重要な意味を持つことを思い知った。残念ながら、崇高な理念などは自分の動力にならない。学生時代、夏は暑く冬は寒いという過酷な環境でも、原付で料理を配達するというアルバイトを続けられたのは、地図を頼りに目的地に辿り着くということ、注文者に直接手渡すという実感があったことが大きかったのだろう。自分がどんな仕事をしているのか、まさに手に取るようにわかっていた。
実感しない限りは理解できない、というのは効率が悪いし、「そんなんじゃ社会でやっていけない」。それでは、社会でやっていけなかったらどうなるのだろう。新宿駅の至るところで、自分の小さなブースを作って身を縮こめている人たちを、私は決して疎外しない。それどころか、「街行く人の視線」を、私は時折想像している。

はっきりと言おう。できないことをやりたくない。そうかと言って、できることなんてないのかもしれない。だから、できるかもしれないと思っていることを一通りしてみよう。そうすれば否が応でも、真実は析出する。その塊の味がどうであろうと、私はそれを拾い上げて、飲み下すしかない。
屍のように生きるよりは、生きているかのような屍になるほうが、私にとっては随分ましだ。

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