テンポラリー・ニート

いわゆるニートになって2週間以上が経過していた。
8月下旬には退職していたので、その時点で定義上はニート(Not in Education, Employment or Training)であった。ただ、日本一周という目的のために退職したので、ほとんど毎日車を走らせており、ある意味忙しいニートであった。
ところが9月下旬にあえなく車が故障し、修理に1か月はかかることになった。車でないと行きづらい場所を訪れるのが今回の旅の目的だったので、行く術を失った以上、修理が終わるまでの間は一旦実家に帰省することにした。こうして私はただの暇なニートになった。

帰省して1週間ほどは、体力回復や荷物整理に時間を費やした。ずっと移動しっぱなしだったので、腰を据えて一旦仕切り直しできるのは、不本意ながら有難くはあった。
1週間もあれば、体力は全回復するし、荷物の整理も終わる。そうなると、人生の中で最も自由な時間が訪れた。課題に追われることもなければ、休み明けの仕事に鬱々とすることもない。自分のやりたいことに時間を注げる絶好の機会である。こういうとき、創作活動に時間を充てるのがもはや癖になっていた。
まとまった時間があるなら小説を書きたくて、アイディアメモを見ながら設定を捻り出していく。プロットが思いつかず、とりあえず休憩しようと小説を読む。こんな素晴らしいものが書きたい、と自分の設定に戻る。やはり思いつかず、今度はYouTubeを見る。
光陰矢のごとし。1日1日の手応えがないまま、あっという間に日が暮れていく。今日も何も為せなかった。密度はないのに体積ばかりが大きい思いが、見る見る積み上がっていく。

ニートは気楽なはずだった。気づけば私は焦っていた。何かを作りたいという思いばかりに取り憑かれて、取ってつけたように過去のアイディアを組み合わせようとして、すぐに諦めて、取っ散らかった頭の中はそのままになっていた。
結局私は、体重の乗ったものしか形にできないのだと思う。自分の目で見て感じた新鮮な思い、日々の生活から濾過された隠しきれない思い、そういうものが源流になるなら、体感や生活が必要になってくる。小学生や中学生の頃は見えるものの範囲が狭い分、頭の中に満たされた空想が創作意欲の源流になっており、その空想さえあればどこまでも行ける気がしたが、見えるものと自由が増えるにつれて、空想という魔法は使えなくなっていった。
体感もなければ空想もない、そんなニートからは何も生まれない。眼前に広がる自由という砂漠に、私は戦慄した。満足なんてどこにもないのかもしれない。たとえやることがあってもなくても。

いつでも旅を再開できるように準備をしよう。幸いにも私はテンポラリー・ニートだ。脚を動かす意思はある。もう一度荷物をまとめたあと、今後に生きるような勉強をするのもいいかもしれない。ジオパークや温泉を巡るわけだし、地学の勉強なんてどうだろう。
10月中に車の修理は完了する見込みである。残された時間はあと2週間前後。そのあとは忙しいニートに戻る。

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