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黄金の終焉

動物園で幼稚園児の娘二人を一日中遊ばせたあとの帰り道、よく行く近所の日帰り温泉に寄った。ゴールデンウィーク中はやはり混雑していて、券売機の前には列ができていた。
自分たちの順番が来てお金を入れると、娘たちは幼児料金のボタンを押し、発券された小さなチケットを握り締める。券売機の隣にあるフロントカウンターは娘にとっては高い位置にあり、娘は少し背伸びをして、30歳くらいの男性スタッフにチケットを手渡そうとする。スタッフがありがとう、と言いながらチケットを受け取ると、娘たちは我が母に纏わりつきながら、大浴場へ向かっていく。

「ありがとう」
カウンターの下からひょっこり顔を覗かせた女の子から、私はチケットを受け取る。ごゆっくりどうぞ、と伝えると、お母さんは会釈しながら我が子を大浴場に連れていく。
29歳の春、私はしがない宿泊施設のアルバイトとしてフロントに立っていた。この宿泊施設は日帰り温泉も兼ねており、ゴールデンウィーク期間は特に日帰り入浴客で賑わっていた。
ゴールデンウィークを享受する側から提供する側になったのは初めてのことだった。子供時代から学生時代、社会人時代に至るまで、この大型連休にどんな予定を入れるか考えるのが自然な流れになっていた。
今こうして初めて「こちら側」になってみると、フロントという最前線でひっきりなしにやって来る人々を邀撃する忙しさに呑まれそうになるものの、確かに具体的なやり甲斐も肌で感じていた。自分がインターフェイスとなって、この施設に対するお客さんの印象を左右できる。その実感は大きな意義を持っていた。

押し寄せる人波の中で、子供の存在はオアシスだった。まだ幼稚園にも入っていないような小さな子が、母に促され、フロントに向かって手を振ってバイバイしてくれる。幼稚園児くらいの子が、元気よく「気持ちよかったし、美味しかったです!」と感想を伝えてくれる(「美味しかった」はおそらく併設されているレストランでの食事の感想だろう)。その純朴さに中てられて、私は自分が某テーマパークのキャストなのではないかと勘違いをしそうになる。
しかし、子供とオアシスは必ずしも等号で結べない。リクライニングチェアの背凭れを倒しきって、そのまま帰っていく子。ソフトクリームコーンの大きな欠片を椅子に残したまま帰っていく子。それらの尻拭いもまた、従業員の仕事になる。
お風呂上がりに必ず牛乳が飲みたいからと、一緒に来た祖父に牛乳を買ってもらい、フロントに預けていく常連の子もいた。それ自体は問題ないが、風呂上がりのその子に冷やしておいた牛乳を手渡しても、横柄な態度で受け取るばかりで、いつも「ありがとう」の言葉はなかった。その子は毎度「喧嘩上等」のような文字が書かれたパーカーを着ていた。
極めつけはゴールデンウィーク最終日。母と祖母が私を呼び止めて、苛立ちを隠そうともせず「すみません、息子に早く風呂から上がるよう言ってくれませんか」と言ってきた。この家族も常連で、呼び出しのお願いはよくあることだった。しかもその原因もわかっている。その小学生男子は脱衣所で長時間携帯ゲームに熱中しているのだそうだ。原因は明白なのに、家族は息子から携帯を取り上げない。あまりにも風呂から上がらないので、母は不機嫌そうに館内から出ていった。

ああ、と私は溜め息を押し殺す。ちゃんとバイバイできる子、素直に感想が言える子。ありがとうも言えない子、ゲームに熱中し過ぎる子。そうした「子供の格差」を目の当たりにするたび、胸中を暴れ回るやるせなさに息苦しくなる。やるべきこと、やるべきではないことを親に教えてもらえる子もいれば、教えてもらえない子もいるのだ。教えてもらえない子はどんどん「厄介者」への道を辿っていく。そのルートを自分から外れるのは難しい。
私はたまたま親から常識なるものを教えてもらえた。おかげで一度は社会人になれたし、辞めてしまった今でも、アルバイトとして働き口を見つけ、フロントに立たせてもらえている。でももし、何でも吸収できる「子供」という黄金時代に、何も教えてもらえなかったら? 黄金時代は必ず終わる。そのとき「年齢上の大人」はどうなるのか?
私は戦慄する。この差は紙一重。虐待を受けて亡くなった子の隣の家には、きっと穏やかな日々を送る家族が住んでいるのだろう。我が子が幸せに生きていくためのサポートをする覚悟もないなら生むな。子に寄り添って育てることは、想像以上に難しいことだというのに。
親の想像力の欠如に、私は激しい怒りを覚える。想像力のあるフリーターの私には、我が子の幸せに満ちた笑顔を微塵も想像できない。だから私は、ゴールデンウィークを満喫している子供たちの笑顔を見るたび、密かに幸福を託そうとしてしまう。

「気持ちよかったし、美味しかったです!」
元気いっぱいに感想を伝える娘たちに、カウンターの向こう側に立つ男性スタッフは静かに手を振る。
「美味しかったのはご飯のことね?」
面映ゆさを感じながら、娘たちを連れて日帰り温泉の出口へと向かう。娘たちはうん、と素直に言いながら手を繋いでくる。家に帰る前に買い物にいかなきゃ。ゴールデンウィークも最終日だし、この子たちが好きなチョコパイでも買ってあげようかな。

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