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揺れ幅

 GWの旅から帰ってきて一週間、まるきり体が動かなくなってしまった。GWの旅自体は順調でメンタル面もがくんと沈むことはなく、この調子なら名古屋に戻ってもまた生活を続けられるだろうと思っていた。最初は一日二日と何も出来ないまま過ごし、もしかして思ってたより疲れていたのかなと思い始め、にしては更に長引いていく体の不調がどうにも制御出来なかった。このようなことを書いてはいるが、何もせず体調が悪くなった訳でもなく、帰ってからずっと酒と薬に浸りっぱなしだったのはあるのでそれも良くなかったなとは思う。そうは言ってもそのような悪習慣はこれまでもずっとそうだったし、これが引き金に急に体が動かなくなるとも思えなかった。ただ、苦しくなれば薬と酒を大量に飲み強制的に意識を落とし、意識が戻ればまた苦しくなるから薬と酒を大量に飲んで意識を落とし、このどうしようもない悪循環は最早歯止めが効かなかった。止めなきゃ、止めよう、みたいな意思も希薄で、それでも出ないといけない授業や課題の事は頭をよぎって必要最低限は何とかこなし、それ以外の時間は昼夜問わず意識を溶かした。依存しているからそうなってしまっているというのも事実だろうが、調子の良かった長旅から帰ってきて直ぐにこのような精神状態に落ち込むのは我ながら異様だった。当然風呂など入れず、目が覚めたら薬と一緒に追い酒して気絶して、3日に一度ほど酒が無くなった時だけふらふらと買い出しに行く。それ以外はずっと布団の上で唸ったり叫んだりするだけだった。そういえば鬱ってこうだったなって思い出した。苦しくて記憶がなく、世界から色が消える。とにかく何も覚えていない。

希死念慮の色の中を ひたひたと

酒の飲みすぎで早死しようがむしろ本望だけど、最低限親に全ての負債を返してからじゃないと死ねないと呪いのように思い続けていて、そのためには社会人になりそれなりにお金を稼ぐ必要があり、だから今のような自己破滅的な生活を続けていてはいけないことくらいは頭では分かっていた。今回のGW後極端に体調が悪くなった原因としふと思い浮かんだのが、旅先で自傷的な衝動が起きる間もないほど気持ちの良い時間を長く過ごして、それは良く言えば非日常で、悪く言えば日常の苦しさとは対立した場所に居続けてしまう行為で、現実に戻ってきた時の精神的な負担が大きすぎたのかもしれない。大抵の場合非日常を浴びたとて死にたいという気持ちに変わりは無いし、風景を見ても「やっぱり死にたいなぁ」という感情は湧いて来て止まらないのだけど、今回の旅はそういうのを考える隙が少なかったように思う。

行間を塗りつぶすように旅をしている

誰だって多かれ少なかれ旅という非日常と日常生活との境は感じてこの趣味をやってるだろうけど、多分今の僕が旅という非日常を摂取することはもはや毒なんじゃないかという気がしてきた。1泊2日程度のリフレッシュならともかく、長旅だと反動が大きく出てもおかしくない。そのような反動を起こさないためには非日常要素の強すぎない、けれど現実からは少し離れられるくらいの、例えば近場で街歩きしてみたりプールで泳いで水を撫でてみたり、負担が強すぎず弱すぎずの気晴らしを持つ方が良いのかなと思った。月に一度映画館に行ってみたり、喫茶店で本を読んだり、そういう生活スタイルが今の自分には必要なのかなと思う。それをしたとて、リストカットやアルコール依存、ODなどを含む破滅衝動から簡単に離れられるとは思わないけど、少なくとも心の揺れは多少収まるだろう。幸せの大きさは心の揺らぎの大きさによって定義されると見ることも出来る。この揺らぎがあるから苦しみも生まれる。常に揺れ続ける橋の上にいるようなこの感覚を捨て去りたい。

今回の旅を経てやはり思ったが、今の僕は一人旅への憧れは殆どない。それよりも誰か落ち着く人と一緒にいたい。僕が本当に行きたいとこを巡るとなると1人でしかできないけど、まぁそれを捨ててでも誰かとの旅行の方がいいかなと思う。そして旅館でも川原でも無人駅でもいいから、ほっとしながら一緒に眠りにつきたい。

虫のたかる街灯の灯りを水面に見て、
一人で俯くことの虚しさを思った

旅という趣味は健康な体なしには出来ないもので、それは当たり前では無いし、若い人でも精神を病むと布団から一ミリもうごけない生活が数週間数ヶ月続いたりするから、結局旅に出れるのは「病み」がある程度寛解して「悩み」くらいにまで戻ってきた時なんじゃないかなと、そう思ったりした。病みという言葉はカジュアルに使われすぎることが多いが、ここでは医療機関の助けを必要とする部類のものを指している。

布団の中で天井見上げながら死を願うのと、旅先で風景眺めて消えてしまいたいと願うのと、何が違うのだろう

何も違わないかもしれない

何も違わないかもしれないのに、叫び狂うように布団を飛び出し、ザックの中に乱暴に荷物を詰め込み、誰もいない山道を歩き続け、ポケットに入れた切符は汗でぐちゃぐちゃに濡らし、傘の一本さえ家に忘れ、精神薬を口中で溶かしてまで、遠い旅先へ途方に暮れに行くのはなぜだろうか

オートバイのバックライトが霞に消える

Twitter上の僕はどこまで行ってもフィクションに過ぎなくて、フィクションで足元を回転させ、承認欲求で舵を取り、その為に再開させたのは事実だし、これからもそうしていくと思う。大抵のことがどうでも良くなってしまった今、そのように理由付けしないとどこへも向えない

それでも、開くことと閉じることを繰り返すことで人はいつか遠くへいけるのだと信じてきた

今もそうだと思う

開くことと閉じることをずっとずっと繰り返して、遠く安らかな場所に辿り着けるのだとしたら、いつかその揺らぎに身を委ねられるのかもしれない。

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