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恐怖とともに生きることの意味


1. 恐怖の正体


まずタイトルとは関係ないですが、このnoteの連載は今後は週に一度の頻度で続けていこうと思います。

理由としては

・3ヵ月続けてきたことで自分に「新たな習慣を手にする力」があることを実感できたから。
・目標をもとに、習慣をアップデートする時期だと感じたから。

主にこの2つが主な理由ですが、個人的にはこのnoteの連載と同時期に始めた、1週間ごとの予定管理と目標の振り返りは自分にとって大きな変化をもたらしてくれた黄金習慣であると感じています。

発信するごと自体の目的は、自分の経験や日々の学びが誰かの役に立ってほしいということと、自分自身の思考を整理することでした。

話は少し遡るのですが、数年前の自分はnoteという形で公の場で発信することに大きなエネルギーを必要としていました。

公の場で自分のような青二才が何を偉そうに分かったような口ぶりで意見を述べることができるのか。

そんな風に心の底では感じていたので、公の場で発信する際に何か衝動的ともいえる強いモチベーションが必要だったのでしょう。

強烈な体験をしたとか、とても落ち込んだ時、点と点が繋がってゾーンのような状態の時とか、何かしら特別な理由が必要だったと思います。

しかし、年明けから続けてきたこのnoteというのは、それとは少し毛色が異なるように感じます。

確かに、公の場で、かつ誰かに届けるつもりで書いていることは変わりないのですが、別に自分の意見を強制するわけでもなく、また同意してほしいわけでもないのです。

その点で、自分がずっと根底に抱えてきた発信する際の、誰かに否定されたらどうしようとか、自分ごときが何かを表現なんかできない、という恐怖を感じることは減ってきたように感じます。

それよりも

自らがこの発信を続けることで、より深い自己理解に繋がり人生がより開けていったらどうだろう。

この発信を受け取ってくれた人がより人生をより深く理解し、豊かに生きていくことができたらどうだろう。

そんな風に自分のフォーカスがポジティブなことに向かっていっていると感じます。

もちろん今でも人前に立つことの恐怖や、公の場で発信することの恐怖がゼロになったわけではありません。きっと死ぬまで恐怖がゼロになることはないと思います。

人間にできることは、視点を別のことに向けること、もしくは恐怖を感じる対象そのものの捉え方を変えるか、のどちらかしかないのです。

前回の日曜日のリーグ戦では、シーズン最多の1200人ほどの観客がスタジアムに駆けつけてくれました。

ロッカールームからグラウンドへ足を踏み入れる際というは、やはり少なからず恐怖を感じました。

その恐怖とは何か。

主には、試合で想定される最悪の状況を脳がイメージして、身を守ろうとする防衛本能のようなものだと思うのです。

大勢の人が自分たちのプレーを見つめる状況で、人前で失敗することの恐怖、プレッシャーというのはかれこれ20年以上サッカーを続けてきた自分でもいまだに感じるものです。

しかし、恐怖を感じ、怯えながら中途半端に生きることや、恐怖に支配され行動せずに生きることに何の意味があるのでしょうか。

そもそも、論理的に考えた際に、たかがサッカーで何を恐れるのでしょうか。


2. 本当に恐れるべきは何か



スペイン語のことわざに、「poner el pan sobre la mesa」という表現があるのですが、直訳としてはパンをテーブルに置くこととなります。

これが意味することとして、主に家族を養うために文字通り何か食べるものを提供することを表します。

生きるために自分が身を粉にして働かなければ自分の命すら守ることができない。

そういった人たちは、恐怖に支配されてしまったとしても納得ができます。

しかし、少なくとも自分はそのような状況に立たされているわけではありません。

いま自分が立ち向かうべきは、囚われる必要のない恐怖(失敗を恐れることや現状の外側に飛び出ることの恐怖)に怯え、生きながらにして既に死んでいるとも言えるような生き方そのものに対する恐怖であると思います。

考えてみてください。

恐怖に怯えて今後10年同じように生きたらどうだろう。

と。

想像力を少し働かせるだけで、それがとても恐ろしいことだと分かるはずです。

だから、自分は恐怖ではなく、喜びや慈しみ、そういったプラスのエネルギーにフォーカスしながら生きていこうと決断したのです。


恐怖で人は簡単にコントロールできます。

負のエネルギーはそれほど強力でかつ有効な力なのです。

これは既に歴史が証明しているところですが、分かりやすい例でいえば、親や教師が子どもを怒鳴りつけたり、罰を科すことで支配することが挙げられます。

彼らは、それが有効な手段であることを理解しているからこそそのような形で子どもと接するのでしょうが、自分が恐怖で人を変えたいとは思いません。

もちろん恐怖そのものを完全に否定はしないですし、時に正しく恐れることは良いことだと思います。

しかし自分がやりたいことは恐怖をベースとして人を変えるのではなく、喜びや慈しみ、そういったポジティブなエネルギーをもとに人を変えていくことです。

これを実現するには、忍耐力や、継続力、日々の工夫と努力が求められます。

まずは自分自身を変え続けていきます。

今日はこのへんにして終わりにしようと思いますが、最後に問いを残しておきます。


あなたはいつどんな時に恐怖を感じますか?

またその恐怖は何が原因で感じられると思いますか?

今後もその恐怖を抱えながら生きていきたいですか?

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