自分探しは徒労、さっさと自分を失くせ

凪いだ湖面のような心持ちで日々を生きていきたい、とは思うものの中々そうは行かないことが多い。

どこからやってくるのか分からない、気持ちのざわめき。あたかも、湖に石ころを投げ入れた時のような不安定な波紋が、自分の内側に広がる。

しかしその石は、誰が、どこから投げ入れたものなのかはさっぱり検討がつかない。だがしかし、現実ソワソワしているし、ざわざわしている。なんなんだこれは、と思う。


ひとは、色々に言う。気圧のせいだよ。天気のせいだよ。季節の変わり目だからだよ。そんな言葉を聞いたからと言って、大して安心できるわけでもないが、多分それらの通説は案外的を射たものなんだろう。

抗っても仕方のないことだとは思うが、さっさとこの不安定な波紋を落ち着かせて、凪いだ水面を取り戻したいな、といつも思う。

その為の術は、とにかく手を動かすことに尽きる。手を動かすその物事に没頭して、「自分の存在を忘れる」ことが大切だ。

ひとは、「自分探し」などとよく言うがそんなことやってるヒマがあるなら、さっさと「自分を失くす」ことに徹したい。そうやって、自分を失くし続ける営みは、自分をざわざわソワソワから距離を保たせる。

とにかく手を動かしてそれに没頭すること。このnoteを書き散らかすのも一つ。

ほかにも、生活の中でできそうなことは多々ある。鍋の焦付き落とし、自転車の錆び取り、換気扇の掃除、編み物、楽器の練習、なんでもいいから、手を動かす。

それらに没頭している間は、自分の内なる湖面は、凪を取り戻す。

繰り返しだが、自分探しなんて本当に意味がない。なぜなら、自分なんてどこにもないからだ。どこにもないものを探し続ける徒労に明け暮れるなら、「それより僕と踊りませんか?」と、井上陽水が歌ったように、没頭できる何かに興じることだ。

あ〜、金麦飲みてぇなぁ