ここ掘れワンワン

11/18に行われる「哲学プラクティス連絡会」第9回大会で、永井玲衣さんの「哲学エッセイを書いてみよう」というワークショップがあると聞いて、とても楽しみにしています。哲学エッセイってなんだろう?ということで、試しに「エッセイ風」に書いてみる、という挑戦です↓



永井玲衣さんの「水中に潜る」という表現が好きだ。
なんて的を得ていて詩的で美しい言葉選びなんだろうと、うっとりする。

水中の哲学者たち
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深く深く潜りながら、溺れてしまう危険性をはらみながらも潜る感覚は、哲学対話で味わったことがある…ような気がする。
(ような気がする…とぼやかしたのは、潜るそこまで辿り着けているほど上級者とは言い難いので、つい)

一方で、私としては哲学対話はもっと泥臭いイメージがある。
水というより土を掘るような、そんな泥まみれな活動に思う。

みんなで集まって、
「ここを掘ろうか?」
「この道具使ってみる?」
「そもそも掘ると何があるの?」
なんて言いながら、
みんなで土を掘っていく。

最初は半信半疑だったのに、
段々と「ここかもしれない」とみんなが惹きつけられて、
「ここ掘れワンワン」と無我夢中になっていく。

気がつけば、泥のついた顔を互いに見合って笑い合うまでになる。
ついさっきまで見ず知らずの他人だったのに、そこには役職や年齢差なんて関係なくて、掘りながらどんどんと関係が築き上げられていく。

もしかしたら、小判がざっくざくと出てくるかもしれないし、
掘っても掘っても何も出てこないかもしれない。

さつまいものひげのような、細ーい何か糸口になるものを見つけて、
期待感いっぱいで方向を定めて掘り進めてみることもあるかもしれないし、
「ここにはない、ここにもない」
と狭く広く試してみることになるかもしれない。

みんなで泥まみれになっている時に、ファシリテーターは言う。
「今何メートル掘り進めてるよ」
と現在地を俯瞰して気付かせてくれたり、
「このスコップの使い方分かる?」
と表現方法をアシストしてくれたり、
「ここにひげの根があるのはなぜだろう?」
と視点を与えてくれたりする。

穴を掘り進めていく中で、ファシリテーターはどこにいるのか?
決して上から眺めて口だけ出しているのではない。
みんなと一緒になって泥だらけになって掘り進める。
ファシリテーターも参加者の一員なのだ。

たまには間違えて革靴で来てしまっても、格好なんて関係ない。
大事なのは態度だ。
みんなで成し遂げようとする気持ちかもしれない。

まさに、みんなで「ここ掘れワンワン」なのだ。

さて…
こんなにもイメージできているのに、
「ここ掘れワンワン」しか浮かばないのがネーミングにおしゃれさがないのはなぜだろう。

やはり、「水中に潜る」には敵わない。

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