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暇とお金

お金を作ることが歳を取るに連れて難しくなっている。
使うことは比較的、簡単なのだけれど、稼ぐことは難しい。

そう感じている人々が多くなっているのか、宝くじ売り場には最近、高齢者の列が出来ている。

なけなしの小金を叩いて、確率の低い博打に走らせるほど、他に金を得る手段が無くなっているのだろうし、一攫千金を狙わなければならないほど、平均的な生活が出来なくなっているのかも知れない。

しかし、高齢になると、もう家族のために、あくせくして大金を稼ぎ続ける必要がない。

生活費というものは、当たり前に人数分掛かるものなので、一人暮らしなら尚更、高が知れている。

でも、稼ぐ必要もなくなったが、使うあてもない。

何故なら、酒も煙草もギャンブルもやらないし、余りまともに仕事もして来なかったりで、趣味と言えば、家族単位で楽しむことばかりであったし、近いうちに人間も終了する予定なので、一人で出来るような趣味がないのである。

家族の中における、殿としての覚悟を持って、その役割に徹して来たが、漸く、もうみんな、安全な場所に逃げ延びたであろうと思われるので、あとは自分の人生の結末を付けるだけであり、とても気が楽になった。

義務のない暮らしというものは、自分一人の我が儘がきく生活なので、自由気儘なこと、この上ない。

だが、テレビを見てもネットの記事を見ても、最近、流行りの権利の話題で溢れていて、義務の話題は経済問題ばかりなのが気になる。

ハラスメントという概念も、全て受け取る側の認識の問題だと言われて議論になっており、それもまた権利意識の延長に思える。

人間関係である限り、そういう積もりではなかったという言い訳の余地がなくなっている。

天賦人権説のように、何もしないで、生まれながらに与えられている権利など、本当にあるのだろうか。

何もせずに与えられることが当たり前だと考えているから、期待値が高く、何時も誰かや何かに期待しているのであろうが、今現在の世界情勢として、何もしていないのに命まで奪われる戦乱の時代になっており、生きていることだけでも当たり前ではないことを痛感し始めている人々が多いのではないだろうか。

特別な病気などの事例を除き、自ら死にたいと漠然と語る人々がいるが、歴史的に見ても、戦争前には、自殺者が極端に減ると言われる。

それはそうだろう。何をした訳ではなくとも無慈悲に殺されることも、また現実なのだと分かれば、自ら死んでいる場合ではない。

死にたいと考えていられることも酷なようだが、まだ時間的にも精神的にも余裕がある状態だと言えなくもない。

何事も極端に振れなければ分からないことも多い。

生きることが当たり前ではないと分かれば、まだ幾らか前向きに生きられるのではないだろうか。

僕の父は、転んだら無駄に起きるものではない、糞でも何でも掴んでから立ち上がるものだとか、男はいつ何時も油断するものではない、金の無い奴は首の無い奴と同じだ、とか今の時代では考えられないような厳しいことを言う人間だったので、無条件に親に愛されようなどとは考えたことがなかった。

現代の親は子供を無条件に愛さなければならないという同調圧力が強いので、それはまた大変な時代であり、僕はマザーテレサでもないので、それは無理で出来ないことであった。

僕の幼い頃は、この街では、まだ手掴みでご飯を食べている家もあったんだよ、などと食事の合間に冗談めかして子供たちに話すと、冗談になっていないのか、本気にされてしまうほど、この街は変貌を遂げ、思い出は遠い昔話になってしまった。


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