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サンドイッチを捨てろ

サンドイッチを捨てろ

生活環境が変わった。今まで当たり前に存在していたものが消え去り、見えていなかったものが実態となって俺の前に立ちはだかってきた。それを刺激として楽しむ余裕はあまりない。いや、別にこれはネガティブな意味ではなくポジティブな意味だ。これまで自分の生活に差し込まれていなかったあれこれを、不慣れながらもこなしていくのは面白い。クソ労働などで疲れている時はいやーンモーなにもしたくないンモーとなってしまうことはとうぜんあるが、今のところはがんばれている。片付けはまったくできないので部屋は激個人的空間(隠語)になっているが。ゴミは嫌なのできちんと捨てています。

だが、やっぱり住む場所はもう少し熟考してもよかったかな、という思いはある。生活に支障が出るほどの大きな不満や欠陥はないけど、そこそこ隣の生活音が聞こえてきてしまうのだ。慣れたので気にすることはそこまでなくなったが、テレビがついたらテレビがついてるということはわかるし、扉を開けたり閉めたりするのもわかる。「だからうち三階だっていいましたよね?」「すいません、入り口が複雑でよくわからなくて……」と二つ隣の人とウーバーの人が玄関先で話しているのも聞こえる。心配になるようなリズムのいびきもかすかに響いてくる。が、別にストレスというほどではない。そもそも元の家も木造だったし、自分の二十数年の生活の中で『存在』していなかった出来事だから、不快感よりも新鮮さが勝つ。

でも、立ち止まって考えてみると、それはどう見ても十全な状態ではない。不便さの中の楽しさ、なんて言えば聞こえはいいが、そもそもそんなものはないほうがいい。隣人の存在を感じることも不機嫌そうな声をきくことも、振動も騒音もユニットバスも一口しかないコンロも、別に体験する必要がないならしないほうがずっといい。他人に気を遣わず好きに音楽をかけたり電話をかけたりドライヤーを使っちゃったり、カビを気にせずお風呂を沸かし鼻歌を、最近の自分だったら『In My Hurts Again』とかだろうか、まあそんなのを歌ったりなんかして、何口もあるコンロでお湯を沸かしながら野菜炒めを作れたりするほうが、楽だしたのしいはずだ。なのに、俺たちは不便や苦痛、不利益などによるあれそれを『経験』とか『勉強』と言う言葉で受容してなんかいい感じの思い出に昇華させるように洗脳されている。自分で好きでやっている、とか夢を実現させるために、とかいうことならそれでもいいのだが、それすらもその大きな何かによる姑息なマインドハックであるという懸念は拭えない。

洗脳による効果を抜きにしてもなお楽しいと思える貧乏暮らしがどうあっても実現しないわけは、つきつめれば、本当につきつめれば「社会」のせいであるということにはなるのだろうが、じゃあそれらがすべての問題が解消されたら、それで解決するのだらうか。まあ、多分そうはならないだろう。そうじゃなければこんな時代になってまで「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なんて言葉が生き残っているはずがない。この言い回し自体に罪はないし、なんならある程度いいことは言ってるんじゃないかな、とすら思っている。今しがた言ったことと矛盾しているように思えるかもしれないが、乗り越えなくてはならない苦労もこの世界には存在すると俺は考えている。

だが、それは先ほど列挙した特に必要のない不利益とはまったく質が違う。ほんらい、全部は無理にしろそれらはある程度回避可能でなければならない。なのにそれをわかっていない奴らが、「若いうちの〜」というような種類の言葉をなんにでも『積極的』に使って価値を暴落させ続けているせいで、本当に救いようがなく最悪なことになっている。

前もどこかに書いたかもしれないが、そういった言葉はたくさんある。絆とかラグビーで有名なあの標語とかワンチームとかおうち時間とかミニマリストとか、それこそ不便さの中の楽しさ、なんていうのもそうだろう。含んでいる意味よりも、使いたがる人間が勝手に意味を拡張するせいで目の敵にされている言葉たち。あまりにも不憫でならない。

でも、楽。こういった言葉はとにかく楽なのだ。世界はもっと難しく多層的で、説明しようとすればするほど言葉を尽くさなければなにも伝わらないのに、不思議とそれらお手軽なワードを使うと、使用者本人の世界が急速に単純化されていく。そうするとあらゆる方向からのふわっとしたアプローチが全てクリーンヒットするようになるため、なんだか自分の思考や理念がまるっと肯定された気分になる。言葉の中にほんらいあるはずのネガティブな部分を切り捨て、「でも〇〇はいいよね」とか「それでも△△だよね」とかいうような構文で、ポジティブな部分だけを掬いあげてしまうようになってしまう。

だからこそ使い方には慎重になるべきなのに、意味が広く多様であるがゆえにあいまいに乱発され、使われた側を苦しめる。その大きな『間』に矮小化され蜜がけされ口当たりのよくなった苦しみや一言では言い表せないあれそれがサンドされる工程が生じるにも関わらず、当の彼らサンドイッチ職人はそれら素材の出どころや内容といったものについては何も考えない。呆けた顔で味付けして食べ、ごちそうさまでしたーおいしかったねーあなたもそうでしょーという感じでスキップで帰っていく。後には何も残らない。便利な言葉を使われた側は腹をすかしたままなのに、使った側は盗んできた他人の言葉を勝手にまずく料理し、満腹になっている。

最悪。これを最悪と言わずしてなんと言おうか。まあ、自分にもこういう便利な言葉に寄りかかってしまう瞬間というのは確実に存在しているから一概には言えないのかもしれないが、もう少し考えて欲しい。別に逆張りだと言われてもいいし、そういうムーブをすることを責めているわけではない。でも、やはり熱狂や楽なものが生んだ楽な空気の中にいる時こそ、立ち止まって考えることが必要なのだと思う。思いつきの言葉で語れることには限りがある。自分の立ち位置や言動を分析し、心の中を仔細にのぞかなければ洗脳はとけない。もしかしたらあまりにも根深く、一生解けることなどないのかもしれないが、それでも抗わないとなにもかもが冷たく固くなっていくだけだ。

と、ここまで書いて別に自分が楽な境遇にいるわけではないことに思い当たった。お菓子が高いので大袋のものばかり買っている。面倒だし疲れているし時間もないけどコンビニで腹一杯になろうとすると英世がいなくなるので、時間をかけて明日の弁当をこさえる。でもトータルでは安いのかどうかはわからない。寒いので暖房をつけたいが電気代も高いのでなかなかつけられない。ニュースでは節電にせっせと取り組む女性が誇らしげな顔をしている。今度は左上隣の人がウーバーかドミノを頼んでいる。外で学生が騒いでいるのが聞こえる。窓からタワマンが見える。給料が低い。生活が蹂躙されている。これも『苦労』なのだろうか。別の時代からみればそうでもないのかもしれない。

でもたしかに俺たちは抑圧されており、サンドイッチを作らず素材をそのままよく味わい、殺すか武器を作るか黙るか考える時にきている。

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大滝のぐれはインスタグラムをやっています。
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•唐揚げとカオマンガイがこんにちは初めて会った気がしないよね

•死ぬべきのものが霊ではない街でロボはしんせつ 命はないから

•おにぎりにサラダもつけて破産する生産性のあるぼくたちは

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