「国際女性デー」によせて

 毎年3月8日は「国際女性デー」です。私が住んでいる宮崎県では、今年も新聞に各地域の男女平等度を分析した「都道府県版ジェンダー・ギャッブ指数」(政治、行政、教育、経済)とそれに関連する記事が掲載されていました。それによると政治46位、行政44位、教育40位、経済11位と、男女平等にはまだまだ程遠い結果でした。
 実際に住んでいる者としては、この結果は納得できるところです。ただ、そもそも「男女平等」というのは何なのかという疑問が湧きます。今回は自身の経験を踏まえながら、この疑問について考察していきたいと思います。
 私は男性でASD当事者の1人であり、就労継続支援A型の利用者です。また、このA型以前には、就労移行支援事業所にいたこともあります。いずれも支援員は男性よりも女性が多い職場です。この場合、「男女平等」をどのように捉えるのでしょうか。
 私は「男女平等」というのは、力関係から捉える必要があると考えています。まずこの言葉は男性が力ある立場であり、女性が力ない立場であることが前提です。元々は、非対称的(対等ではない)関係なのです。ですから、男性が女性を対等にする必要があるのです。女性が主張したりする等して、男性に制限や縛りをかけてやっと対等な関係になるわけです。要するに「男女平等」というのは、力ある立場が力ない立場を対等にすることがその本質ということになります。
 では先ほどの私の経験に戻りますが、こういう場面で「男女平等」を当てはめたらどうなるでしょうか。それは「抑圧」になり得ます。支援員である女性が利を得ることになり、利用者で男性である私が損をすることになるからです。要するに男性だからということで、自己責任を取らされることになります。理不尽です。
 ということは、この場面をどう捉えればいいのでしょうか。まず、この場面は就労支援であり、支援員-利用者の関係であることが前提です。そこでは、支援員(女性)の方が力ある立場であり、利用者(私、男性)が力ない立場です。ということは、支援員が利用者を対等にしなければなりません。支援員が利用者に対し就労に関する教育や指導、助言等の支援を行って、やっと対等な関係になるわけです。これは先ほど挙げた「男女平等」の本質が根底にあります。
 しかし、『私の「トラウマ」経験 その1』で取り上げた交渉担当の女性支援員のように「一部じゃないんだぞ」と、私は男性の一部ではなく独立した女性だと「勘違い」する方もいます。また、私の利用者経験から女性の支援員を観察していると、男性というだけで警戒する傾向が認められます。なので、私は男性の「お世話係」ではないと考えて強く接する(彼女らの認識では「毅然と」ですが)のも無理はないと思います。ただ、支援員は「お世話係」とは全く別物です。支援には専門性が要求されます。支援員ー利用者関係ならば、それを前提に教育や指導、助言等ができなければなりません。それは利用者の態度や姿勢次第で判断してはならないものであり、そんなことをしたらプロではありません。
 現実の社会には女性の支援員に限らず、男性よりも上の立場にいる女性は数多く存在します。そういう状況下にある女性の方々(上司等)には男女平等をそのまま当てはめるのではなく、「男女平等」の本質、要するに力ある立場が力ない立場を対等にするということを前提に、力のない立場にある男性(部下等)に接していただきたいと願っています。また、自分たちが力ある立場になった時、より力ある立場にある側の常識や価値観等に縛られ取り込まれていないかについて検討できないと、同じ女性や子ども、障害者等の力ない立場に著しい悪影響を及ぼすことにも自覚的であってほしいと考えています。
 「国際女性デー」に関する投稿ですので、女性側を擁護したかったのですが、厳しい意見になったかもしれません。私は女性が社会で活躍することを否定はしていません。ただ、「男女平等」の本質から現在置かれている状況を考えてほしいと願っているだけです。
 ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。

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