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平山のカセットにジェイムスブラウンを: パーフェクトデイズを見て

「パーフェクトデイズ」を見てだいぶ経ちました。
見た後すぐは、なんだいい映画だと思えました。
それは「思ったより意外に」でした。
そして案の定、苦い思いがだんだんジクジク染み出してもきました。
なので、書き留めてみます。ネタバレご注意です。

ルーリードの「Perfect Day」は引き篭もりだった19歳の頃の自分のテーマ曲でした。冬枯れの晴れた日に動物園に行き動物にエサをやる。公園で缶コーヒーを飲んでウチに帰る。完璧な一日。
それ俺じゃん。ただ一人きりの日々。
誰とも繋がらず、何事も成せず、手応えのない時間の中でジリジリ腐っていく感触に共振してしまいました。「お前は自分の蒔いた種を刈り取っている」と歌う最後のリフレインに震えていました。

なので、ヴェンダースが「Perfect Day」と渋谷のトイレ清掃員をモチーフに映画を作ると聞いたときに「こんな風になるんだろうな」と想像していたほぼその通りの映画でした。

一言で言えば「撤退と回避の優雅さ」でしょうか。

主人公平山は間違いなく豊かな一族の一員です。妹が運転手付きの車で平山のアパートにやってきて「お父様はもう弱って前みたいなことは言わないわ。だから一度会ってあげて」と懇願するので分かる。平山は首を振って断る。そして泣く。

平山は、元は豊かで力のある一族の出。でも、一族の輪の中で活躍する事から「降りた人」。父親はご立腹。平山は、たぶん自主的に勘当され飛び出した。そして敢えて最底辺の職を選び、安住すると決めた人。欲張らず、日常のルーティンをひたすら繰り返し、穏やかに慎ましく生きる。趣味と教養の人。一種の聖人ですわ。陰キャラヒーロー的な。

でもなんか嫌だな。ズルいなと思えてきた。
平山に乗せたヴェンダース自身が透けて見える。

僕は、監督の旧作「パリ・テキサス」が物凄く嫌いです。思い出すと総毛立つほど腹立たしく憎んだ映画でした。
何いい気になって逃げてんだ。カッコ付けんなよ。ライのスライドギター流して荒野をさすらうだと?どこにも居場所のない魂の詩情を美しく描く?ふざけんな。こんな絵と音の流れゴメンだぜ。
…と、かなり本気で怒っていました。

「パリ・テキサス」の主人公は家族からの復縁を迫られて逃げます。     マジックミラー越しだから逃げたのも見えない。
「パーフェクトデイズ」の平山は富裕層な身分からは逃走したけど、           他人との濃い繋がりは復活させようと多分します。

逃げて終わるか、逃げたけど戻るか。
そこにほのかな希望はあるのか、な描き方。

死期の迫った男を、影踏み遊びに誘って平山は言う。
「人と人の影が重なって濃くならないなんて
そんなバカなことがあるワケないじゃないですか」
男を慰撫しながら、平山は自分に言っている。
金と権力と栄達の世界で濃くなることは避けたのに、別の世界で「人と重なって濃くなる」は出来るのか?

出来るな。うんきっと出来る、がラストシーン。
いつもと同じ朝なのに、生まれ変わった平山。
車の中で朝日を浴びる泣き笑いの顔が長々と続く。
その顔にニーナシモンの「新しい夜明けを迎えて気分がいい」と歌う曲が   なんとフルコーラス流れる。なんてベタな選曲。ホンとにただの絵の説明。   なんなんだこれは。

「平山のカセット」に感じていたモヤモヤした違和感がクッキリ盛れ上がってきました。一曲ずつは素敵でも、選ばれた曲の流れは別の意味を持ち始める。ヴェンダースも「降りた人」なのでしょう。世間の栄枯盛衰を傍観しながら、趣味・教養人として生きる気概の人なんでしょう。参加とか変革とか運動ではない、静かな諦念を良しとする思いを貫こうとしている人なのではと推察します。彼の小津安二郎への憧れもその辺に源があるのかなと。           
小津の諦念は「どんな濃い繋がりもやがて消える」です。
ヴェンダースは「逃げたけど繋がれると思いたい」なのか。
甘いですよ。この甘さが間口の広さかも知れません。
にしても、あまりにベタベタな選曲。
結構呆れました。   

暗い早朝の出勤にストーンズの「眠い街を歩き回る」
夜が明けた渋谷にアニマルズの「朝日のあたる家」
夕方の銭湯にキンクスの「夏の午後の冷たいビール」
そして生まれ変わった平山には「新しい夜明け」

一緒に見たカミさんは、まるで別のトコに違和感爆発させてました。
同じくラストシーンです。押上のアパートから首都高で渋谷に向かう。
もちろん西向きに。だったら正面に朝日を浴びれる筈がない。
夕陽なのか?あのオレンジの長波光は朝日っぽくないぞ!
でも状況から朝日だってことにしときたいのか?と。

映画は虚構なんだし、世界の人には東京の地理なんて関係ないでしょう。
でもやっぱり甘い。音も絵も。

かつてまだ世界が繁栄一直線だった数十年前は「パリ・テキサス」も「反時代的な逃走」の激しさだったのかもしれない。今や世界は衰退と崩壊の序章にあるから「パーフェクトデイズ」の「優雅な撤退」にも時代的なリアリティが加わって優しく描けたのかと。逃げ込むエレガンスの甘さにだって、広い共感を得られそうだぞと。そんなスケベ心が働いてないだろうか?

そして一番苦いのは、あれほど嫌いな「パリ・テキサス」に、僕は自分自身を感じていたのかも知れないと思い当たることです。豊かさも力もないけど趣味の穴蔵にこもって誇る自分。「パーフェクトデイズ」にまだモヤるのは自己嫌悪なのかも知れないです。

最後に。
平山のカセットに絶対入らないのはジェイムス・ブラウンだろうなと。僕も100円の古本で幸田文を選びますが、JBには打たれていたいです。

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