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グレン・デービスという男

割引あり

1961年、アメリカ合衆国フロリダ州で
マイナーリーガーだった父ジーンの
元に生まれた本名グレン・アール・デービスは
自然な形で野球を楽しむようになりましたが
短気で酒癖の悪いジーンに愛想を尽かした
母はグレンが6歳の時に子供たちを連れて
家飛び出しました。

離婚後、厳格なキリスト教徒だった母親のもとで
2人の姉とともに育てられたグレンは
父親に会うことも野球をする事も
禁じられ、伝道師になりなさいと
一方的に進路を決められたうえ、
しつけと称して毎日のように殴打されたのです。

荒んだ環境から次第に喧嘩に明け暮れ、
札付きのワルとして名を馳せた一方、
絶えず湧き上がる自殺願望に
苦しめられる日々を送っていましたが
地元の
ユニバーシティ・クリスチャン高校野球部に
入部した事で人生の転機が訪れました。

チームメイトで親友となった
ストームの父ジョージが野球部のコーチ
だった事もあり、グレンの置かれた状況を
知ると、頻繁に自宅に招いては本物の家族のように
優しく接したほか、
実の母親が野球を取り上げようとするのを
阻止したのです。

ファミリーの温かさを知り、次第に
心を開き始めたグレンは
野球の方でも投手として州大会2連覇に
貢献、1979年MLBドラフト
31巡目でボルチモア・オリオールズから
指名を受けました。

ともに指名を受けた友人のストームは
そのままプロ入りしたものの
野手としての指名を望んでいたグレンは
これを拒否してジョージア大学に進学すると
2年後のドラフト指名を得るために翌年
マナティー短期大学に編入します。

1981年、MLB2次ドラフト1巡目で
念願の野手として
ヒューストン・アストロズから指名された
強打の一塁手は
マイナーチームで西武ライオンズから
野球留学していた秋山幸二とチームメイトになり
互いに切磋琢磨し合う良きライバル関係を
築いていきました。

1982年は1Aアドバンス、
1983年は2Aでリーグの本塁打王となった頃、
2度目の野球留学に来ていた秋山と
再びチームメイトになりましたが
その頃からまた自殺願望が顔を出すようになると
アルコールや女遊びに逃げる生活を
繰り返したのです。

しかし1984年、結婚したテレサ夫人や
養母ノーマの支えもあり立ち直ったグレンは
翌年から一塁手のレギュラーを獲得、
打者不利と言われるアストロドームを
本拠地としながら
100試合の出場で打率2割7分1厘、20本塁打、
64打点の成績を残すと
1986年は31本塁打を放って地区優勝に
貢献しました。

MVP投票でマイク・シュミットに次ぐ2位となり
シルバースラッガー賞も受賞した強打者は
日米野球で来日、旧交を温めた秋山が
「新聞で数字を見て、彼が今何本で俺は何本。
これなら俺はメジャーで何本打てるかもって
考えながらいつも意識していたね」と
語っているように
競い合った日本のライバルにも
大きな影響を与えていたのです。

1990年、自分のように虐待や育児放棄で
苦しんでいる
子供たちを救いたいとテレサ夫人の協力を得て
ジョージア州コロンバスに児童養護施設を
設立した事から
ルー・ゲーリッグ賞を受賞したグレンは
日米野球で二度目の来日を果たすと
翌年、カート・シリングを含む3対1の
交換トレードで
ボルチモア・オリオールズに移籍しました。

しかしその後は度重なる怪我に見舞われ、
義兄弟のストームとチームメイトになった
1992年も思うような成績を残せないまま
翌年解雇されると
8年連続二桁本塁打を記録したスラッガーに
1994年オフ、思いがけない
オファーが届いたのです。

長打力不足と緩慢な守備を理由に解雇した
トーマス・オマリーの後釜を探していた
阪神タイガースは
MLB通算打率2割5分9厘、190本塁打、603打点
の長距離砲に白羽の矢を立てると
身長190センチ、体重95キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。

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