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【トニー・バーネット】ビッグリーグに上がれないまま日本にやって来た27才の若者はヤクルトで最高の仲間と環境を手に入れ才能が開花 メジャーで成功を掴んでもヤクルト愛を公言していた漢気イケメンクローザー

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はトニー・バーネットを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=HwqYTLzPUpM

1983年、アメリカ合衆国アラスカ州に
生まれた本名アンソニー・リー・バーネットは
父親がリトルリーグのコーチを
していた事から、2人の兄とともに
野球を始めると、
ほどなくしてワシントン州に引っ越しました。

アメリカ高校ランキング1位に輝く優良校、
トーマス・ジェファーソン高等学校を経て
アリゾナ州立大学に進学したバーネットは、
野球を続けていた2006年、
MLBドラフト10巡目で
アリゾナ・ダイヤモンドバックスに指名されると
プロの道を歩み始めたのです。

1年目からルーキーリーグで優勝を経験し
2Aに上がった2008年には11勝7敗、
防御率3.87を記録するなど
順調に階段を登っていた3年目、
先発投手として3Aリノ・エーシズで
14勝8敗、防御率5.79の成績を残しましたが
ビッグリーグから声がかかる事は
ありませんでした。

失意の中、シーズン終了を迎えた
2009年のシーズンオフ、
先発投手を探していたヤクルトスワローズから
声がかかると、浮上するキッカケを求めていた
身長185センチ、体重86キロの助っ人は
海を渡って来たのです。

来日前、アリゾナの球団施設内で
読売ジャイアンツのマーク・クルーンから
ストライクゾーンの違いなど
日本野球のレクチャーを受けた27才の右腕は
準備万端整えて空港に降り立つと
ハリウッドスター顔負けの
端正な顔立ちで、たちまち話題となりました。

その姿を目撃した他球団の広報は
「格好良すぎるだろ」と絶賛しましたが
尿酸値が高く、痛風を発症していた助っ人は
いざシーズンが始まると、
一軍と二軍を何度も往復するなど
4勝5敗、防御率5.99と安定感に欠けた事から
1年かぎりで解雇されたのです。

しかし翌年、代わりの先発投手として
韓国のペ・ヨンスを
獲得したものの、直前の
メディカルチェックに引っかかり
来日出来ない事態に見舞われていた
ヤクルトスワローズは
急遽バーネットを呼び戻しました。

2011年、ローテーション枠の兼ね合いから
先発ではなく、リリーフに回った助っ人は
ブルペン捕手、阿部氏からの助言を受けて
ツーシームを軸とした投球スタイルに変更すると
制球が安定、セットアッパー松岡の戦線離脱も
相まってクローザー、イム・チャンヨンに
つなぐ勝利の方程式に組み込まれたのです。

5月に次兄の急逝(きゅうせい)や
9月に右手首の剥離骨折など
たびたび戦線を離脱しながらも
48試合に登板し、22ホールド、
防御率2.68の成績でリリーフに適正を
見出された助っ人は翌2012年、
守護神イム・チャンヨンの不調により
開幕からクローザーを任されると
3月、4月だけで10セーブを記録したほか
5月17日のオリックス戦でイ・デホに
本塁打を浴びるまで失点も許しませんでした。

この年、オールスターゲームに出場するなど
33セーブを上げた右腕は
中日ドラゴンズの岩瀬と並んでセーブ王を獲得、
ストレートとナックルカーブを有効に
使いながら奪三振率も向上させていきましたが
2013年、2014年は、たび重なるケガの影響で
精彩を欠き、2年で合計21セーブに終わります。

そのままクビになっても不思議では
ありませんでしたが
「バーネット以上の球を投げる
ピッチャーはいない」と球団は契約を更新すると
「この2年間は本当に責任を感じていたし
自分自身をコントロールできなくなって
いたんだ」と吐露した助っ人は
2014年のシーズンオフ、休む事なく
練習に励みました。

「全盛期の中日、浅尾みたいに腕の振りを
速くしたいと思って遠投の練習を取り入れたんだ。
去年は可愛い娘も生まれたからね」と
万全の状態でキャンプにやって来ると
新助っ人ローガン・オンドルセクとの争いを
制して開幕から守護神の座を勝ち取ったのです。

以前はロッテのクルーズと一触即発になり、
チームメイトのバレンティンとも
ベンチで乱闘騒ぎを起こすなど感情の
起伏が激しかったバーネットでしたが
「抑え投手に大事なことは自分を
コントロールすることなんだ」と
精神面での成長も見せました。

無双状態となった絶対的な守護神は
開幕直後から23試合連続無失点など
好スタートを切ると
セーブが付く場面での救援失敗は1度だけと
言う充実ぶりで
阪神タイガースのオ・スンファンと並んで
41セーブを上げてセーブ王になったほか
チームの14年振り、
リーグ優勝にも貢献したのです。

その年のシーズンオフ、契約期間を満了した
背番号34は代理人のダン野村氏を通じて
MLB移籍を模索すると
「夢だったメジャーリーグに挑戦するチャンスを
頂けた事に感謝しています。これは
スワローズへの感謝の気持ちです」と
ヤクルトに50万ドルが入るよう
ポスティングシステムの利用を発表しました。

実際には願いは叶わず、自由契約による
メジャー移籍となりましたが、
2年350万ドルでテキサス・レンジャーズに
入団したバーネットは
「6年前、日本とヤクルトスワローズが
私たち家族にとって
これほど影響を与えるとは思っていませんでした。
ファンから受けた優しさは一生忘れません。
東京音頭や、傘を使った応援スタイルが
もう見られなくなるかと思うと悲しいですが
日本で学んだ事を生かして
今後の人生を歩んでいきます。
素晴らしい経験をありがとうございました」と
感謝を口にしたのです。

2016年4月、シアトル・マリナーズとの
開幕2戦目でメジャーデビューを飾ると
ヤクルト時代の同僚、
青木にタイムリーを打たれるなど敗戦投手と
なりましたが、その後は安定したピッチングを
見せ、最終的に53試合の登板で7勝3敗15ホールド、
防御率2.09とチームの地区優勝に貢献しました。

レンジャーズブルペン陣の一角として
ダルビッシュ有など先発陣を支える存在へ
成長した32歳のオールドルーキーは
地元紙から「プレッシャーに強く、
安定感のあるリリーバー」と評され、
2年連続で50試合以上に登板しましたが
メジャー3年目の2018年に右肩を故障、
シカゴ・カブスへ移籍したのです。

その後もケガが快方に向かう事はなく
引退を決意したバーネットは
「野球選手という夢も実現出来たし
そろそろ潮時だとは思ったけど、
これから何をしようかと悩んでいたんだ。
そんな時、ヤクルトからアドバイザーに
ならないかって電話を貰えてね。
再びヤクルトの一員になれるなんて
断る理由はないよ」
と編成部アドバイザーに就任しました。

スリークォーターから投げ込んでくる
最速156キロの速球と
平均球速134キロのチェンジアップを
巧みに使い、緩急自在な投球をしたほか、
スライダーやカットボール、ナックルカーブなど
多種多様な変化球も操った炎のストッパーは
マウンド上で見せる気性の激しさとは裏腹に
普段はジョークばかり言う気さくな性格で
ファンやチームメイトから愛されたのです。

MLB移籍後もメディアのインタビューに対して
事あるごとにヤクルトへの恩義と
感謝を口にしていた右腕は
映画ラストサムライのトム・クルーズのようだと
例えられるほど端正な顔つきでしたが
ひとたびマウンドに上がると
味方の怠慢プレーに激怒するなど
勝負に対する執念を感じさせ
ピンチを脱した際には
不思議なダンスを披露しました。

「来日当初はマクドナルドやサブウェイばかり
食べちゃって、家族と離れた孤独感から
本来の力を発揮できなかったね。
でも、文化に順応できなければ、野球のスタイルも
順応できないと、一旦アメリカの事は忘れて
日本のやり方を学ぼうとしたんだ。
本当はメジャーにいるべきなのに
日本に来てしまった
というメンタルで自分のやり方を
変えられないまま
失敗する外国人を見てきたからね」と
NPBで成功した秘訣を語っています。

9回表、アメリカのロックバンド、
ZZトップ(ジージートップ)の
「Sharp Dressed Man」シャープ・ドレスト・マンが
神宮球場に鳴り響くと、ワイルドな長いアゴひげと
長髪をなびかせて小走りに
マウンドへ向かった助っ人は
外国人投手として球団最長6年間
ヤクルトに在籍し
「俺の居場所はここなんだ」と熱いチーム愛を
見せた
イケメンクローザー、トニー・バーネット

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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