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エクストリーム帰寮を完歩した話

あれは三日前だったであろうか、友人Kから電話がかかってきた。
「エクストリーム帰寮なんだけど参加しない?」
何かその日に予定でも入れておけばよかったと後悔した。そんな感情とは反して、自分は間もなく「いいね」と告げていた。

エクストリーム帰寮とは京都大学の学生寮の一つである熊野寮が主催する学生祭「熊野寮祭」の企画である。名前の通り、企画の内容はエクストリームな帰寮である。まず、参加者は深夜に運営の方が用意してくださった車に乗せられて、熊野寮から遠く離れた場所に落とされる。もちろん場所については何もわからないが、寮までの距離はこちらで唯一指定することができる。そしてそこからひたすら歩いて熊野寮に帰宅する。地図アプリ、鉄道などの交通機関、ヒッチハイクなどは使ってはならない。ただ歩くのみである。

「距離はどうする?」
そうkに聞くと。kは
「30か35キロかな」
「うーん」
参加する前の自分は正直30キロは余裕で歩けると思っていた。
「まぁ、距離は絞りによって決めようや」

【絞り】
絞りとはkとの間の意思決定における最終手段である。まず複数の選択肢を列挙する(ここではA、B、Cとすることにしよう)。そしてABCそれぞれに4枚の手札を配る。次に共通カードを5枚開き、一番強いポーカーの役(フルハウスとかフラッシュとか)手札とこのカードで完成させた選択肢が私たちの自由意志としてはじき出されるわけである。
簡単に言えば、運に任せて決めようぜってことです。

k「何キロを選択肢にする?40キロが限界やと思うけど」
「3択か4択やな」
k「じゃぁ3択」
「35,40,45」
k「45かぁ」
「まぁ絞ろうや」

こうして歩く距離を決めることになった。ラインで通話していたので、カメラ通話に切り替える。

「何枚カット(シャッフル後、カードを何枚か上からのぞくこと)?」
k「14枚」
「はいよ、これで運命が決定されました。」

紙トランプを一枚ずつ折りながら破りながら捲っていく。35キロが最初に脱落した。そして40キロの方はフラッシュが完成した。現状ツーペアの45キロは最後の一枚で残り4枚のまくり目を引かなければならない。

「そういえば、250分の1と400分の1ってどっちが当たりやすいかって話したこと覚えてる?(この日はディスクアップ2を5500ゲーム回してBB14RB26を叩き出した。わかる人だけで良い。)」
k「あー伏線なんだあれ」
「今日は薄いとこの方を引くんよね」

そう言ってカードを絞るとそこに現れたのはスペードの10、フルハウスが完成した。

k「終わった、終わったよ」
「あははははは、あー面白い。でも絞りは絶対やからな。」

他人事のように大笑いしていたが、心の中では怯えていた。どうやら自分は精神と身体が逆の反応をとってしまう性分らしい。

参加当日、前日の夜勤のコンビニバイトの後から寝溜めて、準備は万端。だが腹が減った。腹に炭水化物というバッテリーを充填しなくてはならない。そう思い、kと共に吉野家へと赴いた。パーティションを挟み、kの対面の席に座り、牛皿牛カルビ定食を頼む。

「やっぱり最後にはあったけぇものが喰いたくて。」
k「シャバでの最後の飯やし。」
「そういや誓約書(免責事項が書かれている。要はどうなっても知らんよという通告である)に名前って書いた?」
k「あぁ、書いたよ。」
「俺まだなんだよね。ここで書くわ。」
k「なんかこの光景を龍が如くで見たな。今から幹部に代わってムショに入った若い奴が面会所で手紙を書くみたいな。」
「ありそうやなそんな場面w」

そんな面会をしているところに手向けの牛丼が運ばれてきた。その温かさを胃袋へと掻き込んだ。

熊野寮に到着したのは深夜の2時頃であった。そこにはともに帰寮をするoとtの姿があった。hさんは30分遅刻して来た。こうして今回の帰寮隊である5人の隊員が熊野寮に集結した。送迎の準備ができるまで、食堂で行われていた麻将皇帝戦の決勝戦を観戦した。静かながらも卓を切り裂くような鋭い視線の飛び交う闘牌が繰り広げられていた。私はそれを前回大会の覇者として見守っていた。よくいる嫌な感じのOBさながらである。その時の話も記事にしているのでよかったらどうぞ。(ダイレクトマーケティング)

深夜4時、どうにかして運転手さんが見つかり、レンタカーを工面していただいた。そうしてこの京都学生寮襲撃作戦の行軍が熊野寮から出発することになった。背後に見える住居に2時間ほどいたので早くも帰巣本能が芽生え始めているのを、寮の正門の溝を踏み越す瞬間に感じていた。そうして熊野寮から1キロほど歩いた場所のタイムズシェアカーに乗り込む。一応首に巻いてあったネックウォーマーを頭に巻き、五条悟みたいな格好になることで外界からの情報を遮断した。

k「フリーフォールに乗る前の感情に近いものがある。」
「だいぶ落とされるまでが長いけどな」

車内には運転者さんの趣味であろうブルーノ・マーズの曲が流れる。何曲か知っている曲もあり、これからの不安をスキップするようなリズムがかき消していく。車もテンポに乗りぐんぐんと進んでいく。もうどの方角に向かっているのかも見当もつかない。いや見当がつかない方が面白いからそれでよい。

o「気づいたんだけどさ、さっきからこの車、信号で止まって無くない?」

そんなoの声に首を振るように、載せている不安の重さによろけていくかのように幾多のカーブを曲がっていく。そして降ろされた。

降ろされた場所は知らない土地の田んぼの畦道であった。当然この場所をこの時間に歩く人影は見当たらない。横に謎の白い建物がうっすら見えていた。とりあえずそちらの方角に向かうと交番が見えてきた。歌垣駐在所、それがその鋼板の名前であった。そしてその隣にはエクストリーム帰寮者しか使わないであろう概略の地図看板が立てられていた。この時はまだ脚に余裕があったので、迷うことができなくなってしまい残念だなという気持ちになった。とりあえずこの看板を写真に収め、地図に京都行と書かれている道に向かって歩いていくことにした。

その途中の工事現場に止めてあったトラックで何か動画を見ていた人が第一村人であった。その方はこちらを見ると驚いた顔をしていたがこちらはそりゃ当然だよなと思いながら横切った。そして目の前に現れたのは先の見えない曲がりくねった坂道であった。皆口には出さないもののこの山道を登っていかなければならないという事実を何と飲み込もうとしていた。私はバックから、用意しておいた酒瓶を取り出した。これから始まる旅路に揺らぐ精神を少しでも安定、というよりは曖昧にするためにアルコールを入れた。外気は非常に冷たかったのにもかかわらず、手にしたスミノフはぬるかった。出そうになる愚痴を酔いで流し込みつつ足を進める。そのうち、空が開けてきて、今度は山道を下っていく。この流れを京都市に着くまでに3回ほど繰り替えすのだが、当時はそんなことを知る由もなかった。

山道を抜けるとそこにはここから先が京都府であることを示す看板があった。その看板の前にちょうど開けた場所があったのでそこで朝食を兼ねた小休止をすることにした。hさんが丁度ガスバーナーを持ってきてくれていたので、出発前に配布されていた5枚切りの食パンをホットサンドメーカーで焼き食した。さらにhさんは豆からひいてコーヒーを入れていた。私はコーヒーは飲めない人種なのでもってきていたリポDを流し込んでいたが、そこであることを思い出した。香りをかいで心を落ち着けつるために紅茶の茶葉を胸ポケットに忍ばせておいたのだ。それで私はホットサンドに紅茶という素晴らしい朝食にありつくことができた。

京都府と大阪府の間を跨いで、出たり入ったりする定番の奴をやって、京都府に入る。そこは亀岡市であった。だが市街に到達するまでに曲がりくねった山道と工事現場が続く。どうやら大阪と京都を直通する道路を建設しているようであった。行く道にはその道路の開通の完成を早期に願う標塔が立てられていた。どう考えてもうまく工事が進んでいない様子である。そんなことよりもここを歩く人のために安全な歩道を作ってもらいたいものだ。

裏を返せばこの道は大阪と京都の直通の通路ではないということで、そんな妥協を重ねた道路を歩いているとだんだんと便意を催してきた。そういえば夜食と朝食をしっかりと食べていた。だが、近くには民家さえない山道であったので野糞をも視野に入れることにした。これは発見していたことだが、糞を我慢して歩いているときが意識が肛門に向くので、歩くのが疲れない。カストリビアある。

踏ん張りながら歩いていると、眼下に市街地が見えてきた。亀岡の町である。小腸のようにくねる道を下り、建設途中の鉄橋道路を横目に進んでいくとようやく亀岡市に着いた。もう私の便意は我慢しすぎて引っ込んでいた。遠目には何やら大学らしき建物が見えた。それは京都先端科学大学であった。他の商業施設でトイレを借りる選択肢もあったのだが、初めて大きな建物を見つけた喜びから、なぜか皆そこの便所を使うことにこだわりを持ち始めてしまった。少し遠回りし、その大学に侵入すると、練習をしていた野球部は不審そうな目でこちらを見ていた。不審者じゃないよとは思ったが傍から見れば十二分に不審者である。

しかし、京都市も亀岡市もそうであるが、やはり盆地である。つまりこの亀岡から脱出するにはどうしても山道を歩いていくしかない。私たちは遠くに見える山の切れ目を目指してまた歩を進めることにした。トイレもすましたし。すると、右手側に京都縦貫道なる道が見えてきた。この道を行けば京都に帰れると思った矢先、あることに気づいた。この道路には完全に歩道がない。最悪である。最初車に乗せられていた時の信号のない区間とはここのことであった。遠回りせざるを得ない。皆何も言わないがそれを覚悟した瞬間であった。ただ唯一の希望はトロッコ列車と保津川下りで有名な、JR亀岡駅の方向が分かっていたことである。

迂回を余儀なくされた行軍一行は亀岡に着いた喜びよりも亀岡を出れない悲しみに襲われていた。遠くの山々に見える微妙に色づいた紅葉は煮え切らないこの気持ちを表しているようだった。

とぼとぼと歩いていると、対向車がこちらに近づいてきた。開口一番
「サッカースタジアムってどこにあるかわかりますか?」
と聞かれた。
質問してきた方は僕らのことを不審者ではなく亀岡市の人間だと思ったのだろう。そりゃそうだ。まさか大阪の山奥から徒歩で京都に向かう京都市民であるとは思うまい。この市内にいる人間の中で多分一番声を掛けてはいけない人間らに声をかけてしまっている。可哀そうに運がないと思いつつもそれっぽい方向を指し示しておいた。

ひどく運の無い乗用車を見送ってしばらくすると、セブンイレブンが見えてきた。この亀岡市に入って、回転ずしやステーキハウスの看板を見せつけられてきた私たちはもう我慢ならなかったので、ここで食事をとることにした。軽度のレギュレーション違反ではあるが、食欲には逆らえない。私はサーモンの押し寿司を二つとあったかいコーンスープの缶を購入した。体がとろけるようにうまかった。

しかしながら、未だ亀岡から脱出することはできない。(私たちは亀岡の悪魔と呼んでいた。)途中、田舎特有のクソデカイオンでの休憩をはさみ、亀岡市の愚痴を駄弁りつつもアスファルトの上を進んでいく。すると目の前には国道9号線見えてきた。その道は一応歩道はあるものの、横からは草木がはみ出し来ており、人が歩くことなど考えられていないような道であった。もう一度迂回する選択肢もあったが、背に腹は代えられないので、この道を歩くことにした。(ちなみにこの道を迂回するともう30キロほど歩かなくてはいけないらしい。)それまでは楽しくしゃべりながら歩いていたのだが、この時ばかりは一列になりどまりこくってしまった。私は寂しかったのと、喋り続けないと心が折れそうであったので、この道がいかに危険であるかをずっと実況していたのが、後にメンバーのtは何喋ってるか分からなかったと言われた。道中にはピンク色と苔のモスグリーン色の廃墟代表みたいな配色をしたラブホもあり、この国道の歴史を背負っているようであった。こんな場所で盛るアベックがいるのか、そもそも営業しているのかもわからない。私たちの横スレスレを通るのはその建物には目もくれず猛スピードで走るトラックや大型車、バイクばかりであった。

亀岡の悪魔を振り切って抜けた先は、京都市の桂であった。(亀岡を出る喜び)輝かしい実績の飾られた成章高校の先には、亀岡市で見た京都縦貫道の出口が見えた。ようやく京都市に入ってゴールが見えてきたこともあり、足は限界を迎えつつもテンションはぎりぎりのところを保っていた。私は鳥人間コンテストの名言をパロって
「桂ァ、あと何キロぉ⁉」
とずっと叫び続けていたが、誰も知らなかったのか無視され続けた。悲しいね。

京都市に着いたといっても皆の足は限界を迎えつつあった。私も足裏に痛みが走るようになり、靴底をするようにして歩いていた。小休止が多くなり、口数も減ってきた。早朝から歩いているので眠気もひどく疲労感も出てきた。しかしながら私には秘策を用意していた。Youtubeの動画
「【DJ動画】DISC UP2 SINDY Special DJ MIX【ディスクアップ2 BGM】」
要するにパチスロのボーナス時の音楽のメドレーである。これで強制的に脳内をパチスロで大当たりした時と同じ状態にすることにより、歩く辛さを緩和する作戦である。これは事前にダウンロードしておいたので、通信容量を使わず、聞き続けることができる。これをたまに流すことで、私は歩き続けることができた。皆さんもエクストリーム帰寮をする際はお勧めである。

脳汁を出しながら、左手のパチンコ屋をもスルーし歩き続ける。桂大橋を渡り、烏丸五条まで9キロの看板を見つける。行程の5分の4ほどすでに歩いてしまったことに寂しさを覚えたのは、もうすでに物理的な距離感がバグり始めていた証拠であろう。信号上の地名を見ると聞いたことのある通りの名前が見える。真の京都人なら格子状になっている京都市外の道の全通りの並びと名前を暗記しているそうだから、今自分がどれまで歩いたかわかるはずである。しかし私は3年ほどしか京都にいない似非京都人であるから、烏丸通が京都のどこに位置するかすら不明瞭な状態にあった。やることはただ熊野寮のある方向を向くことだけである。

京都市は意外に広い。京都市についても一向に知っている景色にぶつからないことから皆の精神は壊れ始めていた。私も例外ではなく、奇行が目立つようになる。歩くよりも走る方が楽だと思い込み、目に見えるものすべてを英語に訳し続け、IQ3縛りのしりとりを始める。ともかく意識を歩くことからそらし続けなければいけないと本能的に察したのだろう。

空は私たちの体力の残量を暗喩するように、ケータイが電力不足を示すときの色である赤に色づいてきた。足が止まる。限界を迎える。目の前にはラーメン魁力屋が現れた。入るしかない。背脂マシマシで餃子とライスをつける。少し早いムショからの仮出所した組合員と見間違うぐらいにがっつく。味は別に大した美味しさではなかった(失礼)がともかく元気は復活した。

歩く。歩く。煌びやかな四条河原町の日通りの多い店通りを抜ける。すれ違う人に対しては頼むから道を譲ってくれと念じていた。対向する人を避けないのではなく、もう足が痛すぎて避けれないのである。お前は今日何キロ歩いたんだと心の中で人波に詰問する。この道において一番優先される人物は高齢者でも、子供でも、車いすの人でもなく、40キロ以上を歩いてきた人間である。

進む。進む。鴨川を越え、彼岸に着く。京都を北上していく。だんだんと熊野寮が近づく。足はなぜ動いているのかもうわからない。残っているのはここまで歩いてしまったらもう歩くしかないという気力というには乏しい精神力である。

帰寮した。最後はみな一斉に熊野寮の門を越えた。帰寮報告をgoogle formでする。大きな達成感に包まれたが、まぁただ帰寮しただけであることは変わりない。

結局私たちは大阪の能勢町の田んぼの真ん中から出発し、15時間かけて45キロの行程を踏破したことになった。フルマラソン強の距離は普段運動をしない私にとっては大変辛い距離であった。その次の日、筋肉痛で一ミリも動けなかったのは言うまでもない。


終わりに
これからエクストリーム帰寮に参加する人たちはしっかりと準備と事前の運動を怠らないことを注意されたい。そして、素晴らしい企画を実施してくださった運営と運転手の方々にこんな場所ではあるが感謝を申し上げる。



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