見出し画像

7/14②

何かのせいにするのか。しないのか。世間を騒がせるニュースの大きさに、なにか、かき乱されるものがあるが、それ以上、突き止めたり、言葉にしたり、そういうことはなるべくしないでいる。そのまま、いずれ、私のなかから何かの形であらわれてくるのだろうと考えている。

ただ。空港で、子の手を引く彼女にスマホを向ける一般人を揶揄する投稿を見た。だがその瞬間、映像ジャーナリズムの授業で取り扱った、とある戦争報道の写真をおもいだしたので記そうと思う。

授業自体は2012年ごろだったか。撮影ではなくドキュメンタリー映画をみるのが主な授業だったが、その日は何冊もあるナショナルジオグラフィックから興味ある写真について、どこに惹かれたかコメントをする内容だった。

とある白い壁の小さな家屋、すでに住人は避難したか、略奪されたか、家財は残されておらず、むきだしの床も砂まみれだった。写真手前の、家屋入口から伸びる兵士の影が、その光景を収めたカメラマンだと気づくまでしばしかかった。なぜなら、その影は明らかな軍人のもので、服装やヘルメットの影かたちから、今まさに兵士が家屋に侵入しようとも読み取れたためだ。
すると、その写真を見る者は二重三重に正しい見方を読み取ろうとするばかりに、カメラマンの影に自分が重なり、あげくその影をつくるカメラマンのレンズ越しに、自分自身がその家屋に侵入しようとしている兵士なのではないか錯覚に陥ってしまう。

そんな報道写真であった。

もう10年以上前のことだが自ら言葉で話し、そして、先生によく見ているね、と褒められたせいで余計に思い出してしまったのかもしれない。

先述の批難した内容の投稿のに戻るが、揶揄されてしかるべきは、そのスマホが向けた先に映っているか、ということで、そこにはより多くの報道陣のカメラが並んでいるに違いないし、シャッターは躊躇なく押され、隠された表情を強引にねらっているだろう。

もう少し、想像力を、飛躍させる。
報道陣の動きにつられてスマホを向けた一般人のスマホ写真には、スマホやパソコンの画面越しに悲劇にみまわれた女性とその子供をみる、わたしやあなたが映し出されているのではないか、と。その顔はいったいにどんなに気味悪いものか、と思ってしまう。

むろん、あの状況下で撮られた写真には、報道されている写真とは反対側から撮られた半身が残されているんだろうけども。わたしは誰かを批難や批判をする側でもないし、どちらかといえば野次馬的根性を批判されると思っているから、こんな風に考えてしまうのか。是枝監督の『怪物』で描かれたような、人間らしい自身の一面がふと表出されている気がした。

ここまでお読みいただきありがとうございました。サポートいただいた分は、映画の制作費や本を買うお金に充てたいと思います。