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英雄に憧れない

昨日のnoteはひょっとしたら誰かに怒られるかもなと思ってました。
というのも以前、似たようなことがあったからです。
僕たちが今、自由に生きていることが出来るのは、過去に多くの人がそんな社会にしようと大きな犠牲を払ったからです。
国のために命を落とした人もいるからです。
そういう人に少し無礼なんじゃないの?と昔、言われたことがあります。

例えば、今、ウクライナのために命懸けで闘っている人がいて。
その人たちにも同じことが言えるんですか?と言われるかもなとか。
そういうことを少し考えながら書いたのでありました。

よく政治家が参拝して東アジアの国々から批判を受ける靖国神社という神社があります。
この神社は、かつては幕末の志士だった大村益次郎が明治になってから国のために命を喪った多くの人々の魂を鎮めるために建立したわけです。
国のために命を喪った全ての人を祀っているから、その中にはのちのA級戦犯と呼ばれる人たちもいるわけで、それを東アジアの人たちは批判している。
でも実際はそんな偉人ばかりじゃなくて、名もなき兵士も祀っているわけで、国のために働く為政者たちは、そんな神社に敬意を払わないわけにはいかないのだということなわけです。
確かにそれはその通りかもなぁとも思うし、多くの皆様が参拝する気持ちを否定するような感じではないです。

ただ僕は少しだけそれは不公平なんじゃないかって思います。
確かに戦地に行って、日本のために命を落とした皆様について畏怖の念を抱かざるを得ないという気持ちは僕にもあるのですけれど。
でも僕はその人たちの思いだけで今があるとどうしても思えないのです。
命を落とした兵隊さんのお母さんであるとか、恋人であるとか。
或いは亡国となってはいけないと思わせた故郷の先生であるとか。
おじいちゃんやおばあちゃんの笑顔であるとか。
そんな全ての人たちのおかげで今があるんじゃないかなぁと思うのです。
戦地で国のために戦った人だけが祀られるのは何か違和感があるのです。

勇敢な英雄を讃える。
偉大な英雄だけではない。勇敢な名もなき戦士たちもだ。
そう言われればそうなんだよなぁと思いつつ。
勇敢ではなかった一般市民を想う。
そんなことが僕にはなんとなくしっくりくるわけです。
だから今、ウクライナで闘う人たちにも同じことを言えると思っています。
血を流さずとも生きている全ての人へ感謝したいのだと言えるなぁと。

戦地の為政者たちは声を大きく上げます。
勇敢な戦士たちは!と。
命を差し出してまで実際に今、戦っている人がいる。
同じ報国の士であれば自然に口から出る言葉だろうと思います。
そこまではある意味、立場を想えば仕方のないことかもしれない。
でも、皆で讃えよう!みたいな雰囲気になるのは好きじゃないわけです。
そこはお前、それぞれが思う心の中のことは自由だろって思うわけです。
別に国のために!と一生懸命な人に、それも実は国なんて言う共同幻想だろ?と冷や水をかけるようなことをするわけじゃないです。
ただ僕自身に置き換えると、それを生きることだとは思えないよというだけです。
あなたの人生。僕の人生。

まぁ、特段、誰かに何か言われたわけでもないのですけれども。
昨日、書きながら、これはやっぱ嫌な人がいるだろうなぁと思って。
もうちょっとちゃんと捕捉しないとなって思っただけでございました。

僕は英雄には憧れないのです。

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