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どうしよっかなー。なにがいっかなー。

最近、あることで人にプレゼントをしたのですけれども。
それから少し経って、別の方が自分もプレゼントを考えているけれど、何を送ったか教えてくれませんか?と聞かれた。
んー。そこは自分で考えなよと教えるのをやめた。
誰かと比較したり、誰かを参考にすることでもないんじゃないかって。
お互い送った後に聞くのはまだいんだけどさ。

とどのつまり、時間なのだ。
何がいいかなぁと検討して。
お店に足を運んで。
そうやって相手のことを思う時間が重要なのだと思う。
その時間はその人が喜ぶ姿を考えていたんだよってこと。
そこの時間を端折っちゃったらさ。やっぱさ。

舞台ではいつもその時間を気にしていた。
もちろんチケット代とかさ、他にも色々あるけれど。
やっぱり一番有難いなぁと思うのは時間だった。
チケットを買ってくれてから楽しみにしてくれた時間。
劇場まで足を運んでくれる移動時間。
切り取られた劇空間を共有した時間。
そして観劇後に思い返してくれた時間。
2時間前後の劇空間を中心としたその時間こそ大事だよなって。

僕はどちらかと言えば左脳型らしくて効率が悪いとなんだかなぁって思ってしまう性質があるのだけれど、だから余計にかもしれない。
純粋にその時間を使うということが、とても重要なことだと思う。
ここ最近、タイパなんて言葉を耳にするようになった。
いわゆるタイムパフォーマンス。
確かに僕も電車のどこに乗ったら乗り換えが楽だとか、どの道を歩いたらひとつ前の電車に乗れるとか、この作業を先にしておけば結果的に効率が良くなるとかそういうことを考えるタイプだからとてもよくわかる。
たぶん日本の人はそれが得意で効率化をすることで生産性を上げていくという能力で多くの既製品を生み出した。

ただ逆を言えば生産性を求められない場所が不得意なのかもしれない。
時間をかけることこそ豊かなのだという考え方は理解しているはずなのに。
だって創業100年とかの看板だけで信用しちゃったりするじゃない。
30年間繰り返しで使用した秘伝の付けダレとか大好きじゃない。
それなのに、え?無駄じゃない?という判断がどこかに働きやすい。
ちょっとした寄り道で生まれる何かを知っているのに。

一見、何もしていないかのような無駄な時間。
なんだよ、あんなに待ってたのに何もなしかよ!とか考えてしまうこともある。
でもそうじゃないんだよなぁ。
その間に感じたこと、考えたこと、そういうものは全て何かに繋がる。
時間は何もしなくても流れて、何もしなくても変化を生み出す。
無駄に過ごしたようい思えるその時間が実は重要だったということが良くある。

作家がさ、一文字目を書くまでに何日もかかるでしょ。
なんでやねん、早く書けよ!っていう人もいる。
でも、その一文字目を書くまでの時間も「書いている」ことと同じなのだと考えられるかどうかなんだと思うよ。
たぶん、そういう作家は一文字書いた瞬間に一気に筆が進むタイプだ。

自分の中で効率を求めてしまう性質を自覚しているからこそ。
ここは時間をかけていいよという場所はちゃんと決めていく。
人のことを想ったりする場面で、効率化はいらないかなー。

生まれてから死ぬまでを人生というのなら。
すべての時間は無駄ではないのだ。
貴重であり、豊かであるべきだ。
タイパってのは人生に対する言葉じゃなくて、お金とか仕事とかの生産性に対してしか有効じゃない気がするよ。
いつか思い出せるような時間が何よりも大事だから。

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