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どうか寛容に

今、色々なことで実に息苦しいなぁと感じているわけです。
言葉一つで揚げ足を取られるようなこの感覚。
まぁ聞いてみると正しい意見なので黙るしかないんだけれども。
というか、黙っているわけだけれども。
でも心の中はどうなのよ?と思うことしばしば。
表に出るものを綺麗にしましょうと言っているような不思議な感じ。

そんなギスギスした窮屈な感覚を様々な場面で感じながら。
まぁそんなことは実は大して気にしていないんだけれども。
気になることはもっともっと別なことでさ。
なんというか人間力をどうやって高めていくのかみたいなことを考えた時に、細かいことばかりを気にしてしまう状況を生きていくのって実は同時にルールがない場所での免疫力を下げていることと同義なわけで。
それはそれでもしかしたら自分自身を弱めているんじゃないかと心配になるわけです。
世の中が優しくなれば良いというのはまっとうで正論なのだけれども。
そしてそれを僕も願っているのだけれども。
同時に自分自身がどこまで寛容になれるのかみたいなことも人間力の一つなわけで。

友達に初めてバカって言われて泣いている子供をみて思ったのだ。
この場合は何が正解なのだろうって。
間違いなくバカって言った子が悪いのだ。
そして、バカという言葉だけで傷ついてしまう感性を大事にもして欲しい。
そう思いつつ、その友達がなぜバカと言ったのかという視点も持つべきか。
鈍感になれよとは思わないけれど、その友達を許す度量はあったほうがいいぜとかも思うし。
そして何よりもこの世の中はバカなんて言葉以上の暴力で満ち溢れているから、そのままでは心が参ってしまうんじゃないかという心配。
自分自身が今やバカと言われたら、むしろ喜んでしまうというこの感覚。
ああ、何が正解なんだろうなぁと。
世の中のママやパパはどんな時、どうしているのだろう。
優しくハグすればいいってものでもないだろうしさ。

今の社会はバカなんて言わないようにするべきだという正論が強い。
圧倒的に正しいのだと思う。
けれども、今の僕はバカとか言われたら嬉しく感じるのだ。
お前はバカだなぁなんて言葉は最高の褒め言葉だよなって思ってる。
なんだろう?何が嬉しいんだろう?
まぁ、この人にならバカって言っても怒らないって信頼されている感じとかさ、小利口に生きてないって言われているような感じとかさ、無駄を愛している感じとかさ、そういうことの総体としてバカって言葉は嬉しいのだろう。

人間社会をよりよくしていくためにはバカなんて言葉をなくすべきなんだろうと思うのだ。
でも人間個人を磨いていくのであれば、多くのことを許容して、より寛容になって、何が大事なのか、うわっつらだけじゃなくてその奥に心があるのか、そういうことが見えるようになることが大事なのだと思うのです。
僕自身はまだまだ道半ばだけれども、それでももっと自分の人間力を深めたいなぁと思っているわけでして。

クドカンの不適切は放送されるごとにSNSで様々な意見が出ていて。
ああ、その意見が出る感じがもう手の平の上なんだよなぁと思っててさ。
正しいも正しくないもなんにも結論出さないまま進めるんだろうなぁって。
勝手に議論してなさいと、議題を矢継ぎ早に繰り出している。
そしてやっぱり結論を出さないまま放り投げるんだぜ、きっと。
昔が良かったとも、今が悪いとも言わないままに。
昔は酷かったとも、今は良いとも言わないままに。
ただ作品全体がすごいバカバカしいものにしてやるという気迫を感じていてさ、不適切という名前のバカを完成させるんだ、きっと。

あの旅館ぶっ壊した大学生とかさ。
げんこつくれて、弁償させて、お灸をすえればいんじゃね?
なんだったら旅館の大掃除までやらせてさ。
なんてのは今はもうダメなんだろうなぁ。
大学関係者が謝罪して、ネットで晒されて、社会制裁を受けて。
若い頃テンション上がっちゃって、人に迷惑かけちゃうことなんて誰にでもありえることだって思っちゃうんだけどな。
というか、僕自身にもそういうことってあったし、ちゃんと怒られてきた。

寛容というのは実に難しいことなのだなぁ。
僕もまだまだ修行中の身です。
ギスギスしなさんな。
そんなんじゃ生きていて楽しくないんじゃないかい?
なんて思ってしまう僕はダメなんだろうなぁ。

冗談の一つも言えねぇ。
好きな歌さえ歌えねぇ。
替え歌の一つにもいちいち目くじらを立てる。
厭な世の中になっちまったもんでござんすねぇ。
ええ、社長!どうなんだい!

なんて歌詞がすでに30年以上前にあったんだもんなぁ。

暴論でした。
どうか寛容に。

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