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とうっ!

僕は時々自分がおかしくなったのかなぁと思うことがある。
んん。自分でも自分がわからないというか。
今の自分はなんなのだろねと。

そんなわけがないのにさ。
たとえばドキュメンタリーをみていて芝居が下手だなぁと思うことがある。
逆にいい芝居するなあと思うこともある。
いや、ドキュメンタリーは俳優じゃないだろうなんて思う。
そもそも台本もないしフィクションじゃないんだから。
でも、そういうことを思うし感じてしまう。

漫才師で誘い笑いというテクニックがある。
芸人が笑うことで観客のつられ笑いを誘いだす。
ただその笑いが不自然だと誘うことは出来ない。
だからいかに自然に笑えるかということを目指す。
練習から何百回も聞いてきたボケでも、アドリブを聞いたかのように吹き出して突っこむ。
それをし続けると逆転現象が起きて自然に笑えるようになるらしい。
毎日聞いてるのに、毎回吹き出してしまう。

自然な会話っぽい演技で構成されている作品を観ると嘘っぽく感じることがある。
わざとちょっとつっかえたり、滑舌を甘くしたり、色々やってる。
ああ、自然っぽく演じてるなぁ。テクニカルだなぁって思ってしまう。
そう感じるとちょっと作品世界に入れなくなってしまう僕がいる。
上手な詐欺師を観ているような気分になる。
そういう芝居っけなんかを全部とっぱらうためにあえて棒読みでもいいからただセリフを口にするという選択をしている作品がある。
テクニカルな部分を排除すればするほど肉体だけの表現になって、俳優は存在感そのものだけで勝負しなくてはいけなくなる。
そういうヒヤヒヤするような芝居を観て感動していたら、棒読み芝居だなんていう感想に出くわしたりする。
あれ?そういうものは求められていないのかもしれないなんて思い始めると、なんか急に地面がなくなったような気分になる。

演技のことを考え始めると落とし穴のフチを延々とグルグル回っているような気分になる。
僕はおかしくなったのかもしれないといつも思う。

子供が公園でウルトラマンだか仮面ライダーだかなんだかもわからないけれど、とうっ!とか言ってポーズを決めていた。
そうそう。それだよなぁなんて思い始める。
演技とは演戯だとしたあの本は正しいなぁと今も思うよ。

たぶん自然などない。
自然の本質は形がないものだから。
僕だって親の前と友達の前と一人の時と仲間の前とで全然違う人になる。
声も表情もリアクションも全部変わる。
頭の中じゃ一つのことだけを考えている時間なんてほとんどない。
大抵はマルチで色々なことを同時進行で考えている。
だから不自然って言うのもない。
結局、説得力があるかないかだけだ。

そうなると一番自然な僕というものがなくなってしまう。
僕という個性には説得力なんかないのだから。
今の自分はなんなのだろねと。
そんなときに思うわけです。

やばいよね。

映画『演者』

企画 監督 脚本 小野寺隆一
音楽 吉田トオル

「ほんとう」はどちらなんですか?

◆終映◆
2023年3月25日(土)~31日(金)
K'sシネマ (東京・新宿)

2023年4月15日(土)16日(日)
シアターセブン(大阪・十三)

2023年4月15日(土)18日(火)21日(金)
名古屋シネマテーク(愛知・名古屋今池)

出演
藤井菜魚子/河原幸子/広田あきほ
中野圭/織田稚成/金子透
安藤聖/樋口真衣
大多和麦/西本早輝/小野寺隆一

撮影 橋本篤志 照明 鈴木馨悟 録音 高島良太
題字 豊田利晃 絵画 宮大也
スチール 砂田耕希 制作応援 素材提供 佐久間孝
製作・宣伝・配給 うずめき

【あらすじ】
昭和20年春、終戦直前のとある村。嶋田家に嫁いだ3人の女たち。
血の繋がらない義理の三姉妹は男たちが戦時不在の家を守り続けている。

家長であるはずの長男の嫁、智恵は気を病んでいた。
三男の嫁、恵美は義姉を気遣う日々を送っている。
次男の嫁、陽子は智恵がおかしくなったふりをしているのではと疑っていた。

やがて魔物が再び女たちの前に現れる。
世界は反転して、演技は見抜かれる。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。