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刺激だけの味のない水

ロシアのウクライナへの進行から2年で様々な特集。
3年目に突入した。
当初はロシアがあっという間に勝利するとの見方が多かった。
どうやらそれが失敗になったことがわかった頃から長期戦と予測されて、今日まで続いている。
関心度は高いままなものの、日々の報道は減り多くの人があまり報道を追わなくなっているというアンケート結果も出た。
好き好んで地獄を覗き込む人なんかいない。

その間に様々な新しいニュースが流れる。
今は情報が流れるスピードが早すぎる。
実際にあるニュースなのだからと言えばその通りだけれど。
ある意味では恣意的で、常に何かのニュースをエキセントリックに盛り上げて話題性を強くしていることもあるのだと思う。
実際、例えば昨年の歌舞伎俳優の心中のニュースなんて、記憶の中ではもうはるか昔のことのような感覚がある。
そんなわけがないのに、あっという間に流れていく。

情報がどんどん安くなっている。
僕たちは情報を消費するだけになっているかのようだ。
食いつくして、食い散らかして、放り投げる。
とても大事な話ですと持ち上がったテーマも結局うやむやに話題性が下がっていって、取り残されていく。
芸能人の不倫がどうだならそれで良いんだろうけれど。
重要だったはずの社会的問題や、政治的問題も等価になってしまう。
中には何かの話題で極論を言うことで目立つだけの配信なども増えていく。
本質は薄められていく。
腹が減れば、次の話題を求めて。
コンプライアンスは社会的なルールというよりも、ネガティブな話題にならないためのコントロールのような方向になりつつある。
ニュースという名のエンターテイメント。

四角四面な報道番組などを創ろうにもワイドショー化していく。
誰も見てくれないし、関心を寄せてもらえない。
報道番組と言いながらレポーターが飯を食う場面を流す。
骨太で頑固なニュース番組はもう生まれないのかな。

次から次に流れる情報を消費するだけならば。
目を閉じ、耳をふさぎ、何も見ない方がましな気がしてしまう。
今、ここにある自分の気持ち、感情、それがすべてなのだから。
国際的なニュースも、巡り巡って自分たちの生活に直結する。
国内的なニュースであればなおのことだ。
すべてが他人事じゃないのは明らかだけれど。
すべてに関心を持っていたら、そもそも心が持たない。

山にこもっちゃえばいいのか。
喧騒から離れてしまえばいいのか。
そうなのかなぁ。
無関心が招いた悲劇は歴史上にやまほどある。
自分の精神が持たないなら距離をとり。
今ならと思えるなら情報を確認する。
くだらない話題だけのやつは、くだらない前提でスルーする。
そんなヒットアンドアウェイでやりすごしている。

ポータルニュースサイトのトップページを見て。
ウクライナ2年と、芸能ニュースと、スポーツニュースと。
アクセスされやすい見出しが並んでる。
熊がどうした、宗男が何か発言した、弁護士の見解。
来月になれば忘れてしまうような、刺激だけの味のない水。
シラケて生きるか。
そうするか?

誰かの願いや、誰かの祈りまでスルーしてしまいそうで。
小さな声をやりすごしてしまいそうで。
ふさぐにふさげない耳。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。