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「白き寿ぎ」

 気が付くと、古泉香織は青空を貫くように落下していた。

 これは夢だ。妹が死んだばかりだから、悪夢を見てしまったんだ。理性はそう思い込もうと必死だが、制服のスカートが翻る感覚は生々しい。

「うわっ!」

 不意に驚いた声が聞こえた。同時に香織の体は横から抱き留められ、落下が止まる。助けてくれた相手を見上げた瞬間、礼を言うのも忘れて香織は固まった。

「ああ、失礼。私としたことが」

 空気を孕んだ羽をふくらませ、見知らぬ顔が香織より先に困惑をしまい込む。

「……天、使?」

 男とも女とも判じがたい、柔和な顔付きの若者だ。あたりに浮かぶ雲のように白い巻頭衣に身を包み、背に大きな羽を生やしている。

 羽から眼を逸らせない香織と同じく、天使もまた香織の背中が気になって仕方がないようだった。

「大丈夫ですか。痛くは……なさそうですが。もう傷は塞がったのかな」

 その、いかにも気の毒そうな質問を聞いているうちに、じわじわと実感が沸いてきた。

「えっ、な、なに!? あなた、誰!? ここ、どこ!?」
「私はタオ。ここは私たちの街、ツヲネキナです」

 タオと名乗った天使はスラスラと答えてくれた。

「わ……私は、古泉……香織です」
「カオリ、ですね。カオリ、失礼ですが、迷われたのですか? なら、私の家にご招待しましょう。すぐ近くですから」

 遙かな頭上ではゆっくり旋回する風に乗り、雲の小島に建てられた無数の白い塔が無限の回転を続けていた。その間をタオと同じような姿の天使たちが楽しげに飛び回っているのが、かろうじて見えた。

※※※

 辿り着いたタオの家は、雲の小島の上にある塔の一つだった。籾殻のような物を丁寧に積み上げてできた内部には、壁のあちこちに鳥の巣箱めいた、小さな部屋が作り付けられている。

 タオは小さな部屋の一つまで、香織を難なく抱えていった。難なく、といっても優に数十メートルは飛んだ。

「あなたのお話を聞かせていただきましょうか、カオリ」

 柵などの落下防止措置もないため、部屋の端からできるだけ離れて座った香織は、おずおずと話し始めた。

「千香の葬式が終わった日の夜……自分の部屋で、寝ました。なのに気付いたら、空から落ちていて……」
「チカさんというのは、妹さんですか」
「え? よく分かりましたね。そうです。私の二つ下で、ついこの間、家族旅行に出た先で……」

 崖から飛び降りて、と言いかけて香織は唇を引き結んだ。

 海辺の景色を楽しんでいる最中、突然あの崖の上に行きたいと言い出した千香。千香の要望に惜しみなく応じてきた家族は、額に汗して彼女の乗った車椅子を押してやった。

 そして千香はいきなり全てを投げ出した。車椅子も家族も捨てて、空へと飛び立った。

「なるほど……それは、お気の毒なことが重なりましたね」
「ええ……きっと両親も心配していると思います。千香が死んでしまった上に、私までいなくなったら、どれだけ悲しむか……」

 会社役員の父も、元教師の母も、二人の娘たちに隔てない愛情を注いでくれている。特に千香が幼くして足を悪くしてからは、お姉ちゃんなんだから妹を守ってあげねばならないと、よく言い含められていた。

「分かりました。仲間たちにも呼びかけて、あなたをおうちに返す方法を探しましょう」

 なんのためらいもなく、タオは笑顔で請け合ってくれた。あまりの躊躇のなさに、香織は嫌な予感を覚えた。

「だ、大丈夫? 私自身、どうやってここに来たか、全然分からないんですけど……」
「不安な顔をしないでください。大丈夫、ここの人たちは、みんなとても親切です」

 タオが言ったことは本当だった。その呼びかけにより、ぞくぞくと集まってきた天使たちはいずれも香織を心底気の毒そうに見つめ、家に帰れる方法を探すと請け合ってくれた。

 当座の住まいとして、最初の客間がそのまま与えられた。甘い粥のような物をすすり終わった香織は、遠慮がちにタオに話しかける。

「あの、タオ……」
「ああ、こちらです」

 笑ってタオが示したのは、香織に宛がわれた部屋から五メートルほど下の部屋だった。右にも三メートルほどずれているので、香織のジャンプで届く場所ではない。

「……ごめんなさい。私……」
「そうでした! 重ね重ね、失礼しました」

 瞳に罪悪感をあふれさせながら、タオは恭しく香織を抱えて手洗い部屋まで飛んでくれた。

※※※

「ああー!」

 近所の駅のホームで、ホームドアをガンガン殴りながら千香が叫んでいる。

「あー! あああああー!!」
「や、やめてよ、千香ちゃん」

 周囲のざわめきに顔を赤くしながら、香織は必死で頼んでいた。

 毎月一度、掛かり付けの病院に妹を連れて行くのは香織の役目だ。休日を丸々潰すのも、バリアフリーが行き届いているとは言い難い道程も苦ではない。愛する妹のためなら当たり前だが、千香がたまに起こす妙な発作には困惑していた。

「千香ちゃん、だめだよ、みんな変な顔してるよ?」

 幼い頃の事故が原因で脊髄を損傷し、車椅子生活をしている千香だが足以外に不自由はない。言葉によるコミュニケーションに問題はないはずなのだ。

 だが長じるにつれ、普段のおとなしさが嘘のような発作をしばしば起こすようになった。 特に、医者より「この先も歩けるようになる見込みがない」との診断が下されてからは頻繁になった。

 もちろん、そんな残酷はことは本人には言っていないのだが、何かしら感じるものがあったのだろう。香織たちが尽くせば尽くすほど、千香は不機嫌に塞ぎ込むことが増えていった。

 しかし、彼女を慈しむ気持ちが伝わっていないわけではない。その証拠にしばしば千香は言った。お姉ちゃんは、私にいっぱい気を遣ってくれるよね、と。

「当たり前じゃない、千香ちゃんは私の大事な家族だもの。一生側で、面倒を見るよ」
「……そう。一生、か」

 つぶやく唇の端は、いつもどこか歪んでいた。

※※※

 この夢を見たのは、もう何度目だろう。

「おはようございます、カオリ」

 香織の目覚めを感知したタオが爽やかに微笑みながら飛んできた。汚れが目立ち始めた制服は捨てられて久しく、タオたちと同じような白い衣裳に身を包んだ香織は緩慢なしぐさで起き上がった。

「さあ、ご案内します」

 慣れた態度で香織を手洗いへ連れて行ってくれるタオ。その後は朝食を与えてくれる。飛行するためか、天使の食事は初日の粥に野菜か果物らしきものを添えるのが精々で、腹には溜まらない。

 それでいい。食べれば手洗いに立つ回数が増える。自由に移動できるのは自分の部屋の中だけなのだから、そう腹も減らないのだ。

 ツヲネキナに来てからというもの、学校に行く必要もなければ勉強も家事の手伝いもする必要がない。香織がするのは、できるのは、天使たちが家に帰る方法を見付けてくれるのを待つだけである。

 自分も捜索を手伝うと何度言ってもやんわり断られてしまうのだ。なぜなら香織には羽がない。ツヲネキナの中どころか、タオの家の中でさえ自力で移動できない身では、足手まといにしかならない。口の端を引きつらせながら、笑ってうなずくしかなかった。

「大丈夫ですよ、カオリ。私も、私の仲間も、迷惑だなどと思っていない」

 香織の胸を満たす焦燥は、ある程度タオにも伝わっていた。

「何がしたいのですか。お散歩? お食事? それともお手洗いですか? 遠慮しないで、言ってください。どうぞ私を、あなたの羽だと思ってください」

 あなたの、喪われた羽の代わりに。

 どこまでも献身的なタオの顔をしばらく眺めた香織は意を決した。

「ねえ、タオ。最初に私を見た時、驚いた顔をしたよね。あれは本来あるはずの羽が、なかったから……?」

 もう傷は塞がったのかと案じてくれたタオ。足がないのに車椅子にも乗らず、平気で活動している人間を眼にしたら、きっと香織だって似たような反応をするだろう。

「……ええ、そうです、香織。私の未熟さゆえに、失礼な態度を取ってしまったことを、どうかお許しください」

 自らの至らなさを恥じる表情は誠実を絵に描いたようだ。タオもその仲間たちも心から香織を気遣い、同情してくれているのは理解している。

「あの、ね。私は、元々こうなの。羽なんて、ないの。足があれば大丈夫なの。そういう世界から、来たの!」
「そうなのですね」

 深くタオはうなずいた。香織の言うことを、これっぽっちも疑っていない眼をしていた。

「早くあなたを元の世界に返してあげたい。それまで、今少し辛抱してくださいね、カオリ」

※※※

 タオは優しい。ここの人たちは、みんなとても優しい。

 千香の葬式の時もそうだった。自殺した娘の葬儀であるため、内々に行われた式に集まった親戚たちは、誰もが事情を心得た表情をしていた。無神経な言葉を浴びせられることはなく、少しだけ警戒していた自分を香織は恥じていた。

 今ではもう、遠い昔の話だ。

「タオ、私に仕事をちょうだい」

 数えるのも馬鹿らしいほどの日々をツヲネキナで過ごした後、香織はタオに願った。

「ずっと世話になってばかりじゃ、心苦しい。私もみんなの役に立ちたい!」

 切羽詰まった懇願に、タオはかすかに困ったような、どこかで見たような笑みを浮かべる。

「カオリ、何も気にすることはないと前にも言ったでしょう? この街の人々は、みんなあなたを愛しているのですから」

 それはもう、何度も何度も繰り返されてきた言葉だった。表現こそ毎回微妙に違うが、言わんとすることは変わらない。

 タオたちの手を借りて、ただ、生きていればいいのだと。

「あぁー!」
「カ、カオリ、どうしたんですか?」

 いきなり叫び始めた香織にタオがぎょっとする。それがなんだか、嬉しかった。

「あぁー! ああああああぁぁぁー!!」
「やめてください、みんなが変に思います! カオリ、落ち着いて!!」

 何事かと、近隣の天使たちがわらわらと寄ってくる。彼等の眼にあるささやかな非難の色は、全てタオに対するものだった。それが分かっていたから、香織は喉が枯れるまで叫び続けていた。

※※※

 発作的な叫びを何度繰り返しても、タオは香織を咎めようとしない。

 ただし、憐れな羽なしに、世話をされる以外の役割はくれない。

 だから、こうするしかないの。

 青空に飛び立つタオを見送って、香織は自室の端に立つ。

 十日ほどの間、香織は自室でおとなしく過ごしていた。羽なしに相応しい態度をタオは褒め称え、何かほしい物はないかと聞かれたので、「マオヲが食べたい」と告げた。

 様々な果物の甘みを混ぜ合わせたようなそれは、真珠のような光沢を持つミカン、といったところか。ツヲネキナの祝日に饗されるものだ。タオはちょっと難しい顔をしたが、「カオリのためですからね」と出て行った。

 タオには本当に感謝している。

 そう思いながら、香織は虚空に身を投げた。

※※※

「危ないですよ、飛び降りようとするなんて」

 優しいタオの声が、寝台に横たえられた香織の髪を撫でていく。

「あなたは飛べないのですから、二度とこんなことをしてはいけません。さあ、食べたがっていたマオヲですよ。口を開けて」
「どこかに行きたい」

 差し出された果物には見向きもせず、まっすぐ上を向いたまま、香織はつぶやいた。それ以外の姿勢は取れない。床に叩きつけられる前にタオに救い上げられたため、怪我一つしていないものの、彼女は寝台に縛り付けられていた。

「ここじゃないところに行きたい。一人で立てるところに、行きたい」
「ええ、カオリ。あなたがおうちに帰れるように、みんな一生懸命、帰り道を探しています」

 香織がここに来てから、体感でもう何年も、もしかすると何十年も過ぎていたけれど、天使たちは今でも香織の家を探してくれている。

「ですが、今のところ、手がかりは何も見付かっていないです。本当にごめんなさい。だけど安心してください。あなたのことは、私たちがずっと面倒を見てあげますからね」

 こんな風に、ともう一度マオヲを勧められた香織は機械的にそれを食べた。ひどく疲れた上にものを食べたせいか、急激に眠くなってきた。

「みんなと相談しましたが、羽がないのに足だけあるから、こんなことになってしまったのでしょう。大丈夫ですよ、目が覚めた時には、全ていいようにしておきます」

 微笑むタオが取り出したのは、マオヲを剥くために使ったよりも大きくて重い刃物だった。

 タオたちの献身に包まれて、香織は九十九まで生きた。

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※企画合同誌「少女文学 第一号」に掲載されているものを「ジャンププラス原作大賞」の規定に従い一部改稿したものになります。企画代表者に確認済みです。

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小説家。「死神姫の再婚」でデビュー以降、主に少女向けエンタメ作品を執筆していますが、割となんでも読むしなんでも書きます。RPGが好き。お仕事の依頼などありましたらonogami★(★を@に変換してね)gmail.comにご連絡ください。