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「平気で生きるということ」で書いてきたこと

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「平気で生きるということ」及び「平気で生きるということ(β)」は、2019年の4月から中断を挟んで2年にわたって書いてきた、精神に対する理解を深めるための文章です。そのほとんどの関心は、「平気で生きる」ことを不可能にする無為症や無感動といった抑鬱的な状態に向けられています。

長い過程の中で、扱うテーマや分野も右往左往しているのですが、偶然か必然か、最終的には初めに出発した地点に一周して着地しました。それは「自己と世界の分裂」と言ってよいかもしれませんし、あるいは「論理(言葉)に囚われた生」という問題と言ってもよいかもしれません。

そして、書いている間の自分は一切このことに気付いていなかったのですが、全体を通して常にこの問題と遭遇し続けていたように思います。



木を見て森を見るな


振り返ると、「平気で生きるということ」という文章は「木を見て森を見るな」という序文から始まっています。私たちが生活に憂鬱な沈滞を感じるとき、そこには「古典物理学的に道筋が決定される、昨日の劣化コピーとしての今日、今日の劣化コピーとしての明日…」という普遍化され、色褪せた無限の日常が現前します。

「問題と報酬の世界」では「毎日掃いても落ち葉がたまる…」という言葉を引き合いに出して以下のようなことを書いています。



「落葉の山」を「解決すべき問題」と捉えたとき、葉の一枚一枚は実体を失い、「問題」という空想上の存在になってしまう。だが、それらはどこかの木から舞い落ち、風が吹いてそこにやってきたものだ。それはブナの葉かもしれないし、枇杷の葉かもしれないし、欅の葉かもしれない。疑いようもなくその一枚一枚に葉脈が通っていて、匂いがあり、手触りがあり、それぞれが木を呼吸させ、栄養をめぐらせるという仕事をつとめたもので、プラスティックでできた偽物なんか一枚も混じっていない。



ここで言っている「一枚一枚の葉」の例えは―――今にしてみれば分かることですが―――西田幾多郎の言う「純粋経験」のことを言っています。つまり私たちは、「落葉」という言葉(シニフィアン)を使うことによって、その実在ではなく「落葉」という意味の塊と触れることになり、まさに目の前に現前している葉そのものとの直接の接触を失ってしまうのです。

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