生活をとり戻す(前編)


「平気で生きるということ」では始まってから今に至るまで、手を変え品を変えて同じひとつのことを言っている。それは「ものごとの全体や本質を示す大きなイメージを捨て、それを構成しているひとつひとつの重要さを取り戻す」ということだ。

これらの主張は抽象的な哲学の概念でも詩歌でもなく僕たちの今日の生活、つまり仕事したり問題に対処したりゴミを捨てたり洗濯するということに密接に関わっている。今回と次回の二回分を費やして、人が生活に追いつかなくなり、生活に襲われる状態と、生活を取り戻すことに成功した状態の違いについて書いてゆきたい。



幾度となく参照している例えとして「木を見て森を見るな」で言及した「落ち葉の山」という言葉がある。

玄関先に降り積もる落ち葉の山とはつまり「際限なく日常に降り積もる厄介事やすべきことの数々」、すなわち生活そのものである。もしも僕たちが「葉の山」を「解決すべきひと塊の問題」と捉え、葉の一枚一枚の形と色の違いやそれらにかよった脈、呼吸を見なくなったとき、それらは「永遠に降り積るもの、解決しないもの」としての暴力性を発揮する。

そして、消費社会はその考え方――「私たちは問題を持っていて、それを解決すべきだ」という主張――を間違いなく助長する。



娯楽的ヒーロー映画では必ず悪人が登場し、問題が発生する。強大な力を持ち、われわれ一人ひとりの力では対処不可能な厄災で、一般人は名もなき無力な存在として叫び、逃げまどう。そこへヒーローがやってきて、目からビームを発射し、ビルからビルへ飛び回り、車を爆発させ、信じられない怪力で悪人を叩きのめし、問題が解決する。ああ、やっと悪が去った、安寧が訪れた!

しかし何ヶ月もしないうちにまた新たな悪が発生する。それはまた別の悪人で、無力なわれわれはまたしても別のヒーローを願い、泣き叫ぶのだ。そして彼/彼女が現れ、ビルが倒れ、車が爆発し、悪は打ち滅ぼされ、善と悪が決まった世界でまたしても「問題」が「解決」する。「悪は去った」とこのあいだその口で言っていたのに、また知らん顔をして新しい問題が矢継ぎ早に現れるのだ。

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