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「性善説の人」はなぜ争うのか

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相反する立場で争っている人間たちが互いに極度に似通っているということはあまり珍しくないが、ネット上では特にその傾向は強いように思われる。

特に、加害者と被害者、強者と弱者といった二元論的対立は、最終的には互いが相手のほうこそ加害者であり、真の被害者は我々のほうであるといったふうな堂々巡りに帰着することが多いが、こういった議論では立場Xと立場Yがそれぞれの加害性の否認にリソースを割いてしまい、その加害性を必然たらしめている構造Zにまで及ぶことが少ない。

そして、二元論的な対立では「差別対反差別」のような、一見するとどちらが正義でどちらが悪かはっきりしているような問題でも、糾弾する側とされる側の勧善懲悪的世界観が「似通っている」ことが多く見られる。



それは差別だー差別ではない!


ネット上の反差別運動とさらに反ー反差別運動を横断している大きな誤解とはまず、差別の有無を悪意の有無と厳密に結びつける傾向である。差別を「悪意」と厳密に結びつけている人間は、存在する差別に対してその「悪意」を糾弾し、反対に「悪意の不在」を理由に差別という批判を退けようとする。

しかし、現実には差別は常に「悪意」によって展開されるとは限らない。差別は、「差別的な構造」のもとで「自然」に振舞えば現前するものであり、したがって「差別している人間」から「悪意」を確実に引き出すことはできない。つまり、どんな善人や周囲に愛される道徳的な人間であっても、同時に差別的な勾配の内部では無自覚に差別的に振る舞うのが普通なのである。


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△「傾いたテーブル」の上を転がるボールの二つの見え方



これは、「傾いたテーブル」の上をボールが転がっている状態に例えられる。図のように、差別を実存主義的にミクロ、つまり意思とか悪意の問題として見る場合と、構造主義的に(あるいは社会学的に)マクロの問題として見る場合を比較してみよう。

ボールは傾いたテーブルの上を転がっているが、それはボールが自分の意思で転がろうとしているわけではない。これは、「ボールが転がろうとしているわけではない」のと同時に、「ボールは転がっていないわけではない」のでもある。フィクションならざる現実での差別的言動は、この傾いたテーブルの上での「悪意なき、無自覚の」運動である場合を加味して判断しなければならない。つまり、その人物というボールに生まれ、その人物を培った環境というテーブルに乗せれば―――転がるのである。

しかし、ひとつのボールに例えられる個人の意思の問題を過小なものと見れば、つまりマクロの見方を絶対視すれば、ボールが傾きに抗うこと、つまり差別的な勾配に個人が抵抗することは「不可能」なものとなってしまう。この二つの見方はどちらが優れているとかではなく、どちらを重視してもかえってもう一方の重要さが浮き彫りになるような厄介な性質のものである。



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表層的な差別撤廃ないし反差別運動の大きな問題点は、善悪観だとか本人の人間的資質を差別的行為と厳密に結びつけてしまう点にある。

「あなたの言動は差別に値する」という指摘に対しては、「差別的な意図はなかった」という一種のお決まりのエクスキューズが生まれがちだが、これは「差別は悪である」という道徳的前提を知ってはいるが、一方で差別が悪意なしに・無自覚に反復される場合があるという認識は欠いているという状態を示している。「差別をする・した人とは差別主義者である」という、善悪二元論的世界観では、「わたしは差別をした」という事実を認めることが、すなわち「自分は生涯にわたって差別主義者である」と宣言することに等しく、行為としての差別を認め改めることはかえって難しくなる。ここに、「差別は悪である」というただの感情的了解が高まっても現実の差別は解決するどころかむしろ強固にさえなるという逆説がある。

差別をした人間に対して「差別をした人間」というスティグマを刻印し、永遠に名誉回復を禁止しようとする運動は、「わたしは差別をした」と認め、改めようとする人間に私刑の追い打ちをかけ、見せしめにすることで、溜飲を下げるには良いかもしれないが、その光景はますます「わたしは差別をしていない」と開き直ることのメリットを高めてしまいもする。

また、「差別を許さない」という姿勢は立派かもしれないが、同時に「(自分に内在する)差別(の存在)を許さない」という正反対の態度に結びつくリスクを孕んでいる。事実、目につく他者が演じている悪徳がおのれの内部から排斥したものであることは珍しくない。



実のところ、このような二元論的な形式で差別を糾弾する者と、頑として差別を認めない者の間で共通している思想がある。性善説である。

人間には本来的に、道徳とか善を好む性質が備わってているという考えを性善説と呼ぶ―――が、ここで指すのは語源とは切り離された、もっと感覚的な性善説、つまり「人間というのは自然な状態では悪を成さないものである」というような無謬の信頼を示すものである。

人間の「本質」が善であるとする楽天主義を是とする場合、必然的に「悪を働いているのは人間ではない」という逆が生まれる。このような認識の人間は、悪を働いた人間を「非人間的」であるとして糾弾するが、どの時代においてもこの者たちが糾弾という様式を好むのは「同じ人間に悪を働く者が存在する」という事実が、この人たちの性善説的な世界観を著しく毀損し、「わたしも彼らと同じ“人間”である」という事実に苛立ち、傷つけられるからである。

結果として、性善説的なモラリストは、現実の悪を媒介して「彼は悪人である」「悪人ではない」という、本質とはずれた論争に身を費やすことになるが、実のところ、この一見すると対立する立場がひとつの信念体系、つまり「わたしは善人であるはずだ」というような無謬の信頼をめぐって争っているに過ぎない。逆説的に言えば、頑として差別の存在を認めない人間は「悪人」だというより、「自分の善性を信じて疑わない、潔癖的な善人」だと言ったほうが正確なのである。反差別主義者を「偽善者」だとして批判する態度の裏には、この潔癖的な善性への信頼に対する無自覚が隠れていることがある。

「わたしは差別をしている」と認めるにはまず、人間の本質的な善性と、本質的な善性を備えたものが人間であるという偏見を取り外し、「差別をしたわたしも人間である」という全体を扱うほかない。



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「差別をしている人間」や「悪を働く人間」というミクロに、草の根運動的に対処することが、それらの悪を必然たらしめている構造に対して有効なのか、それともむしろ構造を保存するものとして働くかについて私たちは知らされていない。ミクロの運動は基本的には、それがマクロの問題に影響するという仮定に基づいた一種の賭けである。

たとえば、輸入品店で「フェアトレード」をうたうチョコレートを買うこととか、それをビニール袋の代わりにエコバッグに入れて持ち帰るという環境に対する「ミクロ」な試みは、当然ながらそのミクロの努力が環境問題や格差社会とかの巨大な構造に「有効である」という信念なしには為し得ない。

しかし、もしこの「一般人の」「ミクロの」試みが巨大企業や消費社会の構造といったマクロに対して「無効」であったなら、フェアトレード商品やエコバッグといった「ミクロの努力」の存在をむしろ「マクロの問題」を保存する方にさえ働く。なぜなら、私たちは自らの所属している消費社会やシステムのイデオロギーに一方では「加担」しながら、商品の選択やエコバッグの利用といった「ミクロの努力」によってその加担から無罪放免を得て、マクロの構造に異議を唱えるという社会的責任からはむしろ「撤退」することができるからである。(※1)

たとえばこのように主張することさえできるだろう、「あなたは環境問題がどうとか大きな口を叩いているが、そういうふうにして私のように黙々と“エコ“な生活をする責任を放棄しているだけではないか」。この批判は、立場をひっくり返しても成り立つのである。



問題は、この「エコバッグを使うか否か」というような、マクロの問題に対して本質的であるかが疑わしい基準が、「個人の意思」や「善悪や道徳観」といったミクロのレベルでは極大化する点にある。つまり、根本的な問題に対する姿勢が「エコバッグを使うか否か」という矮小化された二元論に吸収され、いずれの立場を取るにせよ「環境問題への最善の解決策はエコバッグである」というレトリックを飲むことになってしまうのである。

一般人の間で繰り広げられる差別ー反差別の問題も、巨大なシステムによってこのように利用される可能性があると言えるだろう。なぜなら、ミクロの「悪意」のような私的な問題に置き換えられた差別に対して抵抗するのはきりがなく、むしろ差別を生み出しているシステムや構造から目を背けさせ、弱者と弱者同士を争わせ、システムに意義を唱えるような団結を遅延するからである。

たとえば、「自国の労働者が不当な扱いを受けているのは移民のせいである」というような差別的プロパガンダはどの国でも推奨されているが、このようなプロパガンダに容易に追従するのは縋るべきものを求めるような精神状態に置かれている「弱者」でもあり、既に「プロパガンダに毒された責任」を十分に問うことのできない集団であるという見方もできる。そして、反差別主義がそのようにしてレイシズムに「毒された個人」を糾弾することに終始するほど、「差別を生み出しているシステム・構造」に対する本質的な批判は失速し、遅延されるかもしれない。

ここにあるような「善ー悪」という、個人の意思に重きを置く「ミクロの争い」は、悪を生成するシステムや構造にとって都合がよく、ちょうど「パンを盗んだ子ども」を非難しながら「餓え」を生んでいるシステムについては黙認するというような態度に帰着しやすい一面がある。

問題を起こす構造には「顔」がなく、問題を起こした「人間」には常に顔がついている。そして私たちはたいてい、「顔」のあるものを問題と考えるのである。



※1 いわゆるSDGsウォッシュはこの構造を逆手に取り、「ミクロの問題に対処すること」で、イデオロギーやマクロの「構造への加担を払拭」する。

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