問題と報酬の世界

「うまくいかないのならやりたくない。結果が出せないのなら淘汰されて然るべきだ。」

社会において「夢」や「願望」といったものがいかに美辞麗句をもって肯定されたとしても、それが許されるのは「生産的である」という前提を満たしている限りの話だ。その中にあって金銭や数字によって表現できない価値、「私はこれが好きだ」とか「私はこれをするのが楽しい」という思いは人が生き、社会や世が求めるものが何なのかというのを熟知する過程で「もっと標準化された価値観」に取って変わられ、空洞化していく。

数値化できる立派な夢や願望でないもの、ブニャブニャした曖昧な人間の感性は「馬鹿だ、そんなことをしたって何にもならないのに」と非生産的である面を批判され、屑籠に捨てられてしまう。しかしそういった非経済的な願望こそが、その人にとっての生きがいであることもままあるのだ。



経済社会において人間に求められることは二つ。

一、金銭を発生させること。

一、金銭を消費すること。

それ以外には何もなく、またそれ以外であっては何でもない。

「それっていうのはつまり、お金にしたらいくらの価値になるのか」という、おぞましいリアリズムの感性は僕たちの中に知らないうちに入り込み、そして精神の領土の大部分を侵食しているのだ。

「金銭を発生させること」、そして「金銭を消費すること」、この同じ軸のなかで激しく上下する蒸気機関のピストンのような機械的な態度を常に求められた結果、人間はその軸にない感性を失っていく。陽が赤く傾いてやわらかに風が吹ている、並木がゆらめいて時おり草の香りがしている、アスファルトは日中の太陽光を吸収してわずかに熱気をたたえている、だがそういったことに金銭的な価値をつけることができるだろうか?日光も、風も、熱も、全て無料で、そしてこの資本主義社会で無料のなにかがストレスを軽減したり誰かの存在証明になるということはありえない。こういった「無料のできごと」は金銭という荒い網目で掬えないために、やがてないも同然になってしまう。

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