見出し画像

自己否定とは自己愛である

自己否定に陥っている人とは、少なくとも本人の認識では「自分が自分を嫌悪」しており、その「存在を否定」しようと試みていることになっている人である。しかし、もしも自分自身ではなく、自己否定的な他人を客観的に観察したことのある人であれば、その人がある面で「自己否定的な自分」に拘泥し、変形した愛情を注いでいるということが言外に直感されることだろう。

では、自己を「否定」しておきながら「愛する」というこの矛盾した論理はどこからどのように起こっているのか、今回は「否定」という概念の二重の性質に触れつつ掘り下げてみたい。

まず、自己否定の論理の一種の無根拠さ、自作自演性について以前にも触れた「星の王子さま」の一節を振り返ってみよう。


「きみ、そこで、なにしてるの?」
「酒のんでるよ」と、呑み助はいまにも泣きだしそうな顔をして答えました。
「なぜ、酒なんてのむの?」と王子さまはたずねました。
「忘れたいからさ」と、呑み助は答えました。
「忘れるって、なにをさ?」と、王子さまは、気のどくになりだして、ききました。
「はずかしいのを忘れるんだよ」と、呑み助は伏し目になってうちあけました。
「はずかしいって、なにが?」と、王子さまは、あいての気もちをひきたてるつもりになって、ききました。
「酒のむのが、恥ずかしいんだよ」というなり、呑み助は、だまりこくってしまいました。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ)



コンプレックスや自己否定の論理の最も特殊な側面とは、本人の中で成立している「私はXである、ゆえに価値がない」という因果関係が現実には逆転し、「私に価値がないのはXのためである」と理由づけするものXが積極的に求められているという点である。引用のアルコールの例では、「酒を飲むこと」が「恥を忘れること」という目的と、「恥そのものの原因となること」の二つの目的を同時に果たしていることが示唆されている。

これまでに説明した範囲で表現するならば、この状態は「幸福には外観しかない」、そして「存在不安と死の不安」で触れたシニフィアンと欠如の関係に置き換えることができる。つまり、私たちが感じている不安には原因=真の所在がなく、したがって現実の対象に不安の原因を見つけることとは、実際にはある言語化できる対象(=シニフィアン)の欠如によって不安そのものを説明する努力のひとつの過程なのである。そして、不安が特定の対象を取って「具体的欠如」となっていることによって、私たちは「漠然とした不安そのもの」と対峙することなく、言い換えれば「現実の対象」の不足という「対処可能なもの」を相手取る精神活動―――つまり現実的な生活を送ることができる。

この、「説明を受けた不安=対象の欠如」こそ、私たちが欲望と呼ぶものである。たとえばこの欠如が特定の人物からの好意であれば愛欲に、社会的成功と金銭ならそれぞれ成功欲と金銭欲となる。


本質的に不安定な自我を抱えているわれわれ人間は、自我が不安定であるのはこれこれの原因のためで、その原因が解決すれば自我の安定が得られるという物語を不可欠に必要とするから、これまでの物語を信じられなくなった彼は、新しい物語をつくらなければならない。とはいえ、おいそれと新しい物語はつくれないし、従来の物語は、とにかく今まではそれによって「おれはこういう人間なんだ」と決め込んで優越感を持ち、生き甲斐を感じ、何とかやってきたということがあるし、それには正当化の網の目がガッチリと張りめぐらされているから、疑われはじめたとしても(中略)まだ執着がある。(「幻想の未来」岸田秀)



ここで重要なのは、この種の欲望の根源的な存在意義は「不安を説明すること」であるために、必ずしもそれが「〜を獲得するために努力する」といったポジティブな観念と結びつくとは限らない点である。なぜなら、根源的な不安が「私が不幸なのはXがないせいである」という具体説明を受けていれば、とりあえず精神は安定するのであり、その限りで、「私はXのごときくだらない人物だ」とか「私の欲望しているXは不可能だ」といったふうに不幸を嘆くだけでもひとつの「幸福」が担保されるのである。

たとえば、不安を「金銭の不足」で説明していた人は、自分が大金持ちになれないと分かっても、「私が不幸なのはお金がないせいだ」と嘆いていることから多大な利益が得られるのであるし、あるいは現状の不満を「理想の異性と出会って結婚すれば幸せになれるはずだ」と正当化していた人は、それがどうやら不可能だと思われたときに、今度は「私が不幸なのは(理想の異性)が私を見つけなかったからだ」と苦痛に感じるかもしれないが、これはもともと同じ論理が反転して受け取られたものであって、その作用も変わらないのである。

そして引用にあるように、いったんそれを獲得すれば幸福になれるらしく思われたものが、不可能になったからといって、おいそれとそれを捨てて別の欲望に切り替えるということができないのは、たとえばある信仰者が、A宗教を信じていたが神に見捨てられたのでB宗教に乗り換える、というわけにいかないのと同じことである。



空の思想ー空は「無」ではない


そこで大抵の場合、ひとつの幸福に見捨てられた人物が次にすることは、その幸福の価値基準をなげうつことではなく、その幸福の価値基準にとらわれたまま不幸を嘆いたりして、ますますその種の幸福を礼賛することとなる。これはたとえば、神を呪っている人が、自分が神によって不幸にされたと訴えながら神の存在を確信しているのと同じようなことである―――初めから神の存在を知らない人は、それを呪うはずがない。

実のところ、自己否定というものは根本的には、ここにあるような「否定という形式による肯定」、「ますます否定するその対象の存在を色濃く肯定するような否定」の仲間である。このような否定を相対否定と呼ぶ。



画像1



ここで、絶対否定と相対否定という概念を導入するにあたって、上の図のような二項対立を想像してみよう。この対立とは「善ー悪」や「有ー無」のような西洋的論理思考の持つ性質である。

ここから先は

1,789字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?