必要性ゲーム

社会は社会に必要な人間、必要な事象、そして必要な行為を定義し、その必要性に応じて定量化された数値、すなわち金銭を配布する。このゲームを仮に必要性ゲーム、としてみよう。

このルールにおいて、人は人の求めるもの、つまり需要のあるものや行動を提供し、「あなたはこれだけ他人から必要とされた」という証拠として金銭を授受する。そして、授受した金銭はそのまま「その人間の必要性」として担保され、その人に代理して「私は必要な人間だ」と主張する。

だが、これはあくまでゲームなので、金銭を授受する条件として「実際に人の役に立ったり/必要とされる」必要はなく、むしろ横行するのは「金銭を持っているのは必要な人間で、そうでないのは必要でない人間だ」という認識になる。たとえば、どこかの国で巨万の富を保有している投資家は明日いなくなっても困ることはないけれど、大量の「必要性」を蓄えている。それに対して、貧国で作物を作り、あるいは繊維工場で働き、先進国に提供している人たち、さらにはこの国で水道管を直してくれる人たち、ゴミ収集者を運転してくれる人たち、コンビニでバイトする人たちはひとりの富裕層に対して何万、あるいは何百万分の一の「必要性」しか保持していない。だけれど、ある日彼らがいなくなったら僕たちの生活は麻痺する。



前回、やや過激なフェミニズムの観点から「女性の強さ」について書いた。しかし、フェミニズムにおいて扱われるのは主に女性の「弱さ」であって「強さ」ではない。なぜなら、社会において女性の「必要性(…つまり金銭的優位性)」は低く値踏みされ、常に不利な条件に晒されている。それを是正する文脈で不可欠なのは「女性の立場が弱い」と主張することで、言うまでもなく、それは「必要なものしか生きてはいけない社会」で女性が生きるために避けられない戦いだ。だが、そのために「女性は弱い」と繰り返し唱える過程で、女性自身の心理的肯定感が失われることも否定できない。

「必要でないものは生きていけない」社会において、「あなたたちは必要でない」と言われた人は、「そんなことはない、私は必要な人間だ」と抵抗しなければ生きてゆけない。そしてそのことが、「必要でないものは生きていけない」という前提を含んで肯定してしまうことになる。なぜなら、必要性ゲームの通貨は「社会が必要だと認め、数値化することを許された価値観」に対してしか支払われない。たとえば「女性に生きる権利を与えるべきだ」と主張するとき、「社会が女性に対して期待する価値」のみで女性の必要性を説得する必要性が生じ、女性の価値を「産むことができる」とか「男とおしゃべりするだけで金銭を発生させられる」というような非人間的な処理で説明する必要が出てくる。政治家が女性に対して「あなたは産む機械だからもっと産むべきだ」と言ったり、あるいは拝金主義の男性に「金銭を支払えば女性の性的価値を消費できる」という前提が蔓延しているのも遠からぬ由縁だ。もし社会が徹底的に冷徹な目で女性を値踏みするなら、女性が子を産み、社会の運営規模を維持するという絶対的な"必要性"に何千万も支払うことになるだろう。だが、そうしたときに産むことができない、産みたくない、その他産まない事情のある女性の"価値"は地に落とされてしまう。

「必要性ゲームの中で生きるためには絶対に"必要性"を獲得しなければならない。そして"必要性"を獲得するためには"必要性"の範疇の中に自分を定義しなければならない。」

弱者が権利のために戦うときに、必ずこの板挟みにぶち当たることになる。


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