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おのころ日記

はじめに

 生まれも育ちも横浜のハマっ子のわたし。35年ものあいだ横浜で過ごしたので、骨の髄まで都会文化が染みわたっています。そんなわたしは2020年に兵庫県の淡路島に思い切って移住をしました。大阪湾と瀬戸内海に挟まれたその島は別名おのころ島と呼ばれ、日本神話では国生みの地とされています。そんな歴史のある島で田舎暮らしすることにチャレンジしたのです。
 というのも、その年が始まってすぐにコロナ禍となってリモートワークに切り替わったので、日本のどこに住んでいても仕事ができるようになったから。というのは格好つけた建前で、実際は長年の無理がたたってパニック発作が起こるようになったので、心身を休める必要がありました。世界がコロナウィルスの恐怖でパニックとなっている頃、わたしは正真正銘のパニックに陥っていたのです。まさに体内では非常事態宣言が発令されていました。こうなったらこのコロナ禍を逆手にとって健康を取り戻すチャンスにしてしまおうと、生き方・働き方・暮らし方を抜本的に変えるために淡路島へと旅立ったのでした。
 実際に移住すると海と山に囲まれた豊かな自然環境に癒されていき、過労死寸前だった身体は回復して健康体を取り戻していきました。わたしの命はコロナウィルスによって救われたと言っても過言ではないでしょう。
 あれから3年の月日が経ち、今年の5月にコロナウィルスは第5類へと引き下げになりましたが、なぜかわたしの移住熱も解熱してむしょうに故郷に帰りたくなってきました。
 田舎暮らしもいいけれど、やっぱり横浜が恋しい。綺麗な空気もいいけれど、排気ガスにまみれたあの空気がわたしの肺には合っている。そのようなわけで、3年間の淡路島生活にピリオドを打つことにしました。
 愉快で親切な島のご近所さんたちと過ごした愛おしい日々。純朴で人間味ある島の人々の暮らしの風景が、淡路島の爽やかな海風と一緒に心に届いたら嬉しく思います。

意志は形になる

 2020年6月。アベノマスクがポストに1枚こころもとなく届いた頃、新しい生活を整えようと淡路島への移住計画を立てました。どんな家が良いかとあれこれ思い描いてみると、いろいろな望みが生まれてきました。のんびり暮らせる一軒家がいいな。おひさまが大好きだから南向きがいいな。ガーデニングや家庭菜園ができるスペースが欲しいな。海なんて見えちゃったら最高だな。
 そんな贅沢な妄想をしながら淡路島の物件情報を調べるも全くヒットせず…。というのも、現在淡路島は移住希望者がとても多くて家が足りない状況。一軒家となると「これは住居ではなくて廃墟ですよね?」と思わずツッコミたくなるようなボロボロの古民家くらいしかありません。この島で快適に住める一軒家と巡り合える確率はとても低いのです。
 そんななかある不動産屋のホームページを見ていたら、一軒家の賃貸情報が目に飛び込んできました。とりあえず見学だけでもさせてもらおうと即予約。当日期待半分で行ってみると、やっぱり住みたいと思える家ではなくてガッカリ。うなだれながら靴を履いて玄関を出た瞬間、60歳前後の男性とバッタリ出くわしました。彼は近所に住むこの家の大家さんでした。残念ながら希望に沿っていなかった旨を伝えると、大家さんは向かいの家を指さしながらこう言いました。
 「この向かいの家はリノベーションしたのですが、ちょうど昨日リフォームが終わったところなんです。これから入居者の募集をかけようと思ってたのでちょっと見てみますか?ちなみに僕は大工で、この家を自分の手で1年かけて仕上げたんですよ」
 外観は古民家風の立派な一軒家。南向きに建てられていて、お庭には太陽の光が燦燦と降り注いでいます。菜園になりそうなスペースもあるし、二階からは海が見えるとのこと。なんと妄想していた条件を全てクリアしています。さあ家の中はどうだろうとドキドキしながら玄関から入ってみた瞬間に一目ぼれ。白壁と茶色の木材のバランスが絶妙で、思わず「素敵!」と叫んでしまいました。
 しかし奇跡はこれだけでは終わりません。なんと大家さんは「そういえばまだ家賃の金額を決めてなかったな。いくらがいい?」と聞いてくれて、わたしに家賃額を決めさせてくれるという驚きの展開に!こうして頭の中で描いていた理想の家に出会えて、しかも格安の家賃で契約させてもらえるというミラクルが起きたのでした。
 これは夢?それとも現実?と頬をつねりたくなってしまうような出来すぎたストーリーに戸惑いながらも、しっかり意志を固めて動けば必ず形になるという創造の原理に触れたような奇跡体験でした。

初めての車生活

 淡路島は電車がなく路線バスも1時間に1本あるかないかという環境なので島民の交通手段は車オンリー。このようなわけで、移住をするときに人生初の車ライフが始まりました。
 わたしは20歳の時に免許を取得して以来一度もハンドルを握ったことがありません。約20年間無事故無違反のゴールド(ペーパー)ドライバーなので、運転が慣れるまではきっと色々やらかすだろうと予想。そのような理由から、安心してぶつけられる安い車、乗れればいい車、そんな車がちょうどいいのかなとぼんやり考えていました。
 そんな折、友人の知り合いがプリウスを手放すから貰い手を探しているという、またとない機会が幸運にも舞い込んできました。持ち主は飲食店を経営する粋な兄貴で、閉店後夜遅くにそのプリウスを走らせてわざわざ家まで来てくれました。
 到着したのは夜中の0時過ぎ。おひさまリズムのわたしにとっては起きていられない辛い時間帯。寝ぼけまなこで見てみると、車体は傷と凹みがすさまじく、右側のバンパーはもはや原型を留めていませんでした。後にも先にもこんなボコボコの車は見たことがありません。そんなコンディションということもあって、兄貴は「5万円でいいっすよ」と言って譲ってくれることに。安心してぶつけられる安い車。乗れればいい車。その願い通りの車が本当に現実化して目の前に現れてしまいました。
 その後、兄貴が陸運局などで手続きを済ませてくれて、後日プリウスがわたしの元にやってくると、予想をしていなかった驚愕の事実と直面することになりました。なんとヤン車仕様だったのです!タイヤは斜めにされてハの字に改造。フロントガラス以外の窓は真っ黒のフィルムで総貼り。見せてもらった時は深夜で暗くてしかも眠くて、全く気付かず見落としていました。
 遠い目で車を見つめていると、神様の声らしきものが初めてきこえてきたような気がしました。〝乗れればいいのですね、ボコボコであっても。乗れればいいのですね、ヤン車仕様であっても。では、そなたの願い通りに乗れればいい車を与えましょう。アーメン〟

 車生活にも慣れてきたある日の朝のこと。まだ8時だというのにインターホンが鳴って、玄関のドアをドンドンと叩く人がいました。こんな朝早くから誰だろうと思ってドアを開けると、お隣のおばちゃんが何やら焦っています。「どうしたんですか?」と聞くと、車のバッテリーが上がってエンジンがかからず困っているとのこと。
 「仕事に遅刻しちゃいそうで。それで、あの、その…」と申し訳なさそうに上目づかいで何やら訴えてきます。その眼差しからピン!「もしよかったらうちの車を使ってください」と言うと、パアっと表情が明るくなってホッとしたご様子。
 「でも、見た目がひどい車なのですがいいですか?」と聞くと、「大丈夫!乗れればいいわ!」と即答。その言葉を言ったな…と内心思いつつ駐車場に案内すると、車体を見たおばちゃんはたじろぎながら思わず二歩後ずさり。しかし、遅刻寸前で1分1秒を争う状況のため躊躇っている暇はありません。戸惑いながらも車に飛び乗ってアクセル全開で出発していきました。
 まさか60歳を超えてヤン車に改造されたボコボコの車に乗るなんて思ってもみなかったことでしょう。恥ずかしいきもちで走るんだろうな…と気の毒に思いながらも、Have a fun drive!と手を振って車が見えなくなるまで見送ったのでした。
 仕事を終えて無事に帰ってくると、「ぎりぎり間に合ってタイムカード1分前に切れたのよ!奇跡だったわ!本当にありがとう!」と興奮気味に報告してくれました。それはよかったとわたしも喜びながら、朝のドタバタ劇を二人でケラケラ笑い合って一件落着。
 そんなことがあった翌日のこと。おばちゃんは育てたお米5kgをお礼にくれました。ヤン車7時間レンタルでお米半年分と交換。なんだかわらしべ長者のような気分になったのでした。

不毛の地を楽園に

 この家には二畳ほどの土のスペースがあります。夢の家庭菜園を楽しもうと胸を高鳴らせて初めてスコップをさしてみると、なんとたったの3センチくらいしか掘れません。とにかく固く、しかも砂利まで敷かれていて、野菜が育つ柔らかい黒土とは程遠い状態でした。
 大家さんに相談してみると、雑草が生えると管理が大変なので鬼真砂(おにまさ)という真砂土を入れてその上に砂利を敷いたのだそう。真砂土は学校の運動場に使われるあの土のこと。雨が降れば降るほど土が固く締まっていくので草が生えません。
 それでも家庭菜園への憧れは消えませんでした。自分の手で野菜を育てて旬の時期に収穫してお料理に使いたい!そんな素敵な生活をしたい!と思い、雑草一本生えてこないこの不毛の土地を野菜がたわわに実る楽園に変えてみせようと決めました。
 亥の年生まれのわたしは猪突猛進。さっそく楽園化計画のために砂利を手でどかしていきます。そして、近所の空地で刈った大量の草をもらってきて、真砂土の上に敷いて堆肥にしていきます。堆肥になったらスコップで土にすきこんでいく。これを一年かけて何度も何度も繰り返しました。
 すると翌年の春にはホトケノザやハコベなどの雑草がたくさん生えて緑が蘇り、驚くほど土も柔らかくなって野菜が育つ土壌へと変化しました。その夏はゴーヤーやトマトやオクラなどの収穫にも成功。その様子を見たご近所さんたちからは、「この痩せた土地をここまで肥えさせてたいしたもんだ」と一目置かれる存在となったのでした。
 雑草の根は石を溶かしてミネラルに変えていき、土に空気を送り込み、土壌のpH調整までしてくれると聞いたことがあります。色々な種類の雑草が生えてくればくるほど良質な土に変わっていくのを見るのは、まさに楽園が完成されていく喜びそのものでした。

 楽園化計画2年目の終わり頃には深さ20センチくらいまで耕せるようになりました。こうなったらジャガイモも育てられるのではないかと期待が膨らんで、その想いを込めてエイっと強くスコップを土に差し込んだとき、ガツンと固い何かにぶつかりました。
 ん?なんだろう?大きな石でもあるのかな?そう思って土をよけてみると毛布のようなものが出てきました。嫌な予感が全身を貫きます。土の奥から毛布が出てきた…。毛布には何が包まれているんだろう…。まさか死体とかじゃないよね…。悪い妄想が次から次へと浮かんできます。恐る恐る震える手で毛布をめくってみると、なんと本当に白骨が出てきたではありませんか!スコップに当たったのは頭蓋骨で、どうやら脳天を直撃させていたようでした。その瞬間、火曜サスペンス劇場のBGMが脳内で大音量で流れました。
 ぎゃー!と声に出して叫びたいけれど、恐怖とショックのあまり喉がしまって声になりません。高速に脈打つ鼓動をただ感じながら茫然と立ち尽くします。見てはならないものを見てしまった。出てきてはいけないものが出てきてしまった。一体この家は過去に何があったのだろうか。ジャガイモへの欲をかいたがために未解決だった事件の真相の蓋を開いてしまったのかもしれない。これは警察に通報すべきなのだろうか。色々な思考が猛スピードで巡るなか、まずは大家さんに報告しようと三軒先に住む大家さんの家に駆け込みました。
 「すみません!助けてください!庭から白骨が出てきたんです!」ひっくり返った声で必死になって矢継ぎ早に訴えると、大家さんは血相を変えて一緒に現場へと急いでくれました。
 震える手で毛布をめくる大家さん。すると、「あ、これはきっと犬のタローやね」と言いました。え?タロー?犬?そう思ってよく見てみると、頭蓋骨はたしかに人間の丸い頭の形ではなくマズルを思わせる口の長い形をしていました。どうやら以前この家に住んでいた人が飼っていた犬のタローのようで、死んだ後にこのスペースに埋められていたようです。
 「いやあ、懐かしいなあタロー」と微笑みながら白骨に語り掛ける大家さん。わたしは安堵やら気味悪さやら様々な感情が交錯して、大家さんの背中越しに白骨化したタローをただただ見ていることしかできませんでした。
 その日の晩のこと。夜中に悪夢でうなされて目が覚めました。その夢の内容は、タローと思われる中型の雑種犬がわたしの身体の上に乗って遊んでいて、重たくて苦しくて動けないという夢でした。庭で静かに眠っていたタローを起こしてしまった祟りかもしれない。そう思うとまた大家さんの家に助けを求めて駆け込みたくなったのでした。

食いしん坊にご用心

 淡路島は温暖な気候ですが、それでも冬は雪がちらつく時もあります。だいぶ冷え込んできて庭の南天が真っ赤な実を熟した頃、その年の終わりが近づいてきました。お世話になったご挨拶として菓子折りを大家さんに渡すと、そのお礼にと大晦日に魚を持ってきてくれました。
 大きな袋がその重さでちぎれそうになっているほどたくさんの魚。一人暮らしのわたしには食べきれない量であることが明らかで、思わず「ギョギョッ」とさかなクンの言葉が口から飛び出そうになります。
 袋を覗き込むと横浜では見たことがない魚が二種類入っていました。ひとつは太刀魚(たちうお)でした。銀色に光る長細いその身は本当に刀のようで思わず魅入ってしまいます。そして、もうひとつはマンボウのような形をした30センチほどの魚。関西の海ではマンボウが獲れるのかなと思って、「これはマンボウの子どもですか?どうやって食べるんですか?」と聞くと、大家さんは笑いながら「これはマナガツオだよ」と教えてくれました。なにやらお隣の岡山県で獲れる高級魚なのだとか。
 人生でまだ一度も食べたことのない太刀魚とマナガツオ。どんな味がするのだろうとワクワクするものの、はてさてどうやってこの量の魚を食べきろうと嬉しさと戸惑いが入り混じる複雑な気分に。
 さっそく太刀魚を裁いてみると10個分の切り身になりました。生まれて初めての太刀魚料理はムニエルにすることに。塩とレモンとローズマリーのシンプルな味付けで蒸し焼きにして食べてみると、太刀魚独特の甘さと柔らかさが口いっぱいに広がって感動!その後は煮つけや塩焼きなど飽きないように工夫をしながら食べ続けると、8切れ目を食すことになった5日目に異変が起きました。太刀魚を口に入れた瞬間に吐き気を催したのです。さすがにもう飽きて食べたくないという声と、もったいないから食べなければという声のせめぎ合いの中、いかに吐かずに飲み込むかというちょっとした罰ゲーム状態に。そんな過酷な体験をしたせいか、これ以来太刀魚が食べられなくなりました。
 そこで思い出したのが以前勤めていた会社の上司のエピソードです。彼女は大の椎茸好きで、椎茸狩りに行って夢中になって焼いて食べていたら、20個目くらいで突然吐きそうになってその瞬間から大嫌いな食べ物に変わったのだとか。どんなに美味しい食べ物でも食べ過ぎると拒否反応が起こる臨界点が人間にはあるようです。

 太刀魚を食べるのに必死だったので、マナガツオの方は手も胃袋も回る余裕はありませんでした。どうしよう、このままでは腐ってしまう…そう悩んでいたら干物にするアイディアがポンと浮かんできました。干物にすれば日持ちがするので急いで食べる必要もありません。そう思ってさっそく初めての干魚づくりにトライ。
 3尾のマナガツオをそれぞれ開いていって、たっぷり塩を塗って竹ざるに乗せて縁側に置いていきます。その作業をしていたら野良猫が背後からやってきて、華麗なジャンプと共にあっと言う間に1尾をくわえて持っていってしまいました。
 「ああああ!」と声を上げて急いで後を追いかける姿はサザエさんのテーマソングそのもの。おさかなくわえたのらねこおっかけて全速力で走りましたが、野良猫の足の速さにはもちろん勝てません。
 とぼとぼ家に戻ると他の野良猫も竹ざるに頭を突っ込んでいる光景が目に飛び込んできました。「ああああ!ちょっとやめてよ!」と大きな声をあげて急いで駆け寄ると、これまたさっと1尾をくわえてどこかへ逃げてしまいました。   
 高級魚があっと言う間に野良猫にもって行かれてしまいトホホな気分に。しかし落ち込んでいる暇はありません。奇跡的に残った1尾を死守して干物として完成させるミッションが残っているからです。
 庭先は危険だということが身に染みて分かったので、苦肉の策として二階にあるベランダで洗濯物と一緒にピンチハンガーで干すことにしました。パンツと一緒に魚が干されて風になびいているその珍光景を見たご近所さんたちは笑ってこう言いました。「お姉ちゃん、魚は食べてもええがパンツまで食べたらあかんで」
 数日後、めでたくマナガツオの干物が完成しました。軽く焼いて食べてみるとその美味しさに身震いするほど感動!マナガツオの深い旨味、塩気、焼いた香ばしさが絶妙で、ご飯を三杯もお代わりしてしまいました。それ以来干魚づくりにすっかりはまってしまい、カマスやらアジやら旬のお魚を干して食べるようになりました。そして、パンツと魚が一緒に干されているその風景がこの町に溶け込んでいったのでした。

おわりに

 横浜という都会で生まれ育ったわたしは、ご近所さんという人間関係を知らずに成長しました。何年間も同じマンションに住みながら、隣の部屋に住む人の名前が分からないのは当たり前。このような文化を背景にして大人になったので、淡路島の濃密で温度があるこの有機的な関係性には良い意味でカルチャーショックを受けました。
 困ったらいつも助けてくれる大家さん。季節の果物やお野菜やお魚を食べきれないほどお裾分けしてくれるおばちゃん。お花の苗や種をくれるおばあちゃん。伸びすぎた庭の木の枝を快く切ってくれるおじちゃん。みんなまるで娘か孫のように接してくれます。
 先日、関東に戻ることをお隣のおばちゃんに伝えると、涙を流しながら「行かんといて~!ずっとここに住んでや~!」とギューッと抱きしめられました。ここではソーシャルディスタンスなんてものはありません。相手へのきもちを身体や心や言葉を使ってダイレクトに伝え合う関係性があります。
 わたしたちはこの3年間のあいだでパンデミックのもと人間として何か大切なものを置き去りにしてしまったのではないかとよく思います。子どもたちはマスクによって相手の豊かな表情を見ながらコミュニケーションをとる機会がなくなり、黙食によって会話と共にある食事の楽しさがなくなってしまいました。
 ディスタンスという言葉は物理的にも心理的にも人と人とを離れさせて、それまであった繋がりを分断してしまったように見えます。淡路島で暮らしていると、メディアを通して知るそのような状況が遠い世界のおとぎ話のように感じることが幾度となくありました。
 毎日おばあちゃんたちの井戸端会議の笑い声が響き渡るこの地域。昼寝をしているとその大きな笑い声で起こされることはしょっちゅうで、その笑い声に引っ張られて布団の中でこちらも思わず笑ってしまいます。それは一人一人が楽しいことや面白いことがいっぱい詰まった世界の重なり合い。毎日人との繋がりの中で笑って食べて身体を動かして生きること。それこそが健康な身体と健全な心を育み、病に負けない免疫力を獲得する本質的な予防法なのではないかと考えさせられました。
 この混沌とした社会情勢が続いたあいだ、島の愉快な人たちに囲まれて過ごせたことは幸いだったかもしれません。外側の世界がどうであっても、それぞれが明るい世界で生きることができる。それは在り方ひとつで現われるもの。そんなことを教えてもらったおのころ生活でした。

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