[2021/03/05]何もわからない、知らない

 この記事は私の独り言です。文章としておかしい場合や誤用や主語抜け・主語不統一・主語過多に関しては、おおきめに見てください。



 note記事を過去2つ書いてみて、もう既に疑問だらけだよ。
・一つ目の記事に目次が出現した件について
・二つ目の記事に目次が付かなかったこと
・改行について
・わかってないことが多いのに投稿できること

 まあ、日々勉強ってことですね。はい。



どのくらいわからないか

 とにもかくにも、わたしは全部何もわかっていない。世界の仕組みやら生きている意味、そこまで壮大ではなくても身近にあることでも不思議なことわからないことなどいくらでも出てくる。
 「そんなに人間多くを知らなくていいんだよ」って社会じゃないでしょ実際。だから僕も調べるんだけど、検索やら何やらでわからないことの意味を引くと、それに次いでわからないことが倍々に増えてついてくるような気がする。


 また、脱線ばかりでこの記事がまとまらないことも厳密にはわからないから来ている。
<国語力がない→国語力ってなんだ?→どうやって国語力が身につくのか?→検索した結果受験対策~~→わからない>

 もうわかることはすでに知っていることであって、それは過去の僕自身の興味やら環境やらの意思が担っていたものなので、自業自得ではないと考えている。(知らないことは現在の自分のせいではないという暴論)

 次に、わからないなりに考えてみた考察を示そう。(頭痛が痛い的な)



不安が終わらない

 これに尽きる。もう無限ラビリンスから抜け出せないような恐怖に駆られるのだ。不安が次の不安を呼び、またその後ろからは別種の不安が顔をのぞかせている。しかも対策を打ち出す以前に、わからない地獄に陥るため今までの努力と思っていたものが泡のように次々とはじけていくのだ(自信の喪失を表しています。)。


 「何も聞こえない 何も聞かせてくれない(徳永英明/壊れかけのレディオ)」とあの英明も歌っている。大人になったら聞かせてもらえないんだ。
それならなおのこと、子供は周りの大人の違いよって聞かされる格差が開いていく一方じゃないか。聞かせない大人は元より聞かせられてないし、聞かそうとも思わないだろうよ。



わかるには

 わからないということはわかることもできるということだね。ここから一転、わかるについて書いていこうと思う。まずわかるとはどういうことか知るところから始めようとするが、知ることがわからないなら先に進まない。

 ということで、調べました。

 知ることつまりは知覚はすべての根源である。行動するのも、他者と付き合るのも、自己を確認することも。僕らはみんな考え、悩み、それで生きている。そのプロセスに知覚があるのだ。(パスカルの「人間は考える葦である。」という自己解釈)
 以下に脳科学的視点から簡略化して【「わかる」とはどういうことか】を説明しよう。

 「わかる」ためにはまず何かを考えないといけない。ではまず考えるを知ろう。
 思考とは、記憶からはじまる。知覚の初期段階である一次情報や記号および言語などを脳内に留めておくことから繋がっていく。ある程度覚えたら次に疑問が現れる。その都度記憶にアクセスし、解決すること自体が思考することである。この場合まだすべてはわかっていない、全体像がわかっただけである。(記憶にないことはわからない。また、全体像だけですべてがつながる場合もある。)


 




 


 



 ここまできて、まじめに「わかる」について書いていこうか悩んだのだが、どう考えても己で調べて知った方がいいので、お開きにします。(面倒になっただけ)



結論

 「わかる」を知ることは、「わからないを知れる。」とは限らない。


参考文献

・「「わかる」とはどういうことか/山鳥 重 著(ちくま新書 2002年発行)」




 今回は太文字を取り入れてみました。これでひとつnoteについてわかったよ、パトラッシュ。(そんなにわかってない)

 

 大学図書館から2か月ちょっと借り続けている本を参考にしました。
こんな私でも図書館の本は早く返した方がいいことはわかっている。


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