祖母、肝臓ガン、末期、幸せな最期ってなに?①

祖母が末期の肝臓ガンだと知らされた。気持ちを整理するためにこれを書く。

先週末に検査を受けて、2〜3日以内には結果が出ると知らされていたので、母に電話した時には「どっ、どどど、どうだった?」と漫画のようにどもってしまった。

母は私に知らせる事を忘れていたようで、一瞬、ぽかーんとしたような間があったあとに、あのね、末期だって、ガンの、と、最初は平坦な声で、「ガン」の「ガ」くらいからは、涙声になって言った。

目の前が暗くなった。

暗くなると同時に、しかしなぜか頭の中からあらゆる物事が消えて空っぽになったように、心はしんと静かになった。

母は最近、日に日に弱って行く祖母と多くの時間を過ごしていたから、覚悟はできていたのかもしれない。

「簡単にいうとね、川島なおみさんと同じ状況なの。でね、おばあちゃんは、もう92歳だし、寿命もまっとうしたしね、もうじゅうぶんだから、痛みだけ取ってね、緩和ケアで、自宅で過ごしたいって言ってるの」

母は涙声になりながらも、いつもの毅然とした、明朗な口調で言った。

母の話では、この数日、いろんな病院をぐるぐるしたあとに緩和ケアの施設にも行って、ばたばたと大変だったらしい。それで、私に電話をするのを忘れていたようだった。私は私で、今日が火曜日だと思っていたので

「こんなに早くいろいろ決めたの?」

と言ったら

「今日は木曜日だよ」と笑われた。

もう木曜かよ。

今週末、高知にいく予定だった(まだ東京で消耗してるの?のイケハヤさんとこに遊びに行く事になっていたのだ)けど、やめて、実家に帰ろうか?と言うと、母は

「いや、おばあちゃん、あんたが帰ってくると、いろいろと世話したがって気を揉むから、とりあえず行って来て、来週に帰って来てよ、これから緩和ケアの人たちが杖持って来たりいろいろ聞き取りにきたり、大変なのよ」と言った。

これだけ文字で書くと母はとてもそっけないように思えるかもしれないのだが、母は祖母をとても愛しているのだ。もちろん、私も。

私は祖母に育てられた。祖母がだいたいのことを全部面倒を見てくれていた。祖母は私が本を出したり、私の仕事が上手く行くのをなにより喜んでくれて、「美由紀が幸せに仕事しているのがおばあちゃんの幸せ」といつも言っていた。いつでも私のペースで、勝手にいろいろさせてくれたし、就職しなかったときも、大学留年したときも怒らなかった。

「あのね、美由紀、焦って結婚しなくていいからね。あなたはね、絶対ね、一般的な奥さん稼業とかはできるタイプじゃないからね、それよりもあなたの才能を認めてくれて、伸ばすのを手伝ってくれるような、優しい人を選びなさいね」

とナイスアシストなことを言ってくれる人なのだ。

「おばあちゃん、あのね、私ねいつかねノーベル文学賞取るからね」

と言うと

「うん、美由紀なら取れるよ」

と言ってくれるやさしいおばあちゃんなのだ。

私だけじゃない。20歳から60歳まで小学校の先生をしていた祖母にはたっくさんの教え子が居て、その多くからめちゃくちゃ慕われていた。今でも毎年、同窓会にひっぱりだこだし、毎年夏には実家のある岡山から死ぬほどお中元の果物が送られて来て、我が家の冷蔵庫は桃とピオーネではちきれそうになる。

とにかく愛のある女なのだ。

そのおばあちゃんが、今年の夏からだんだん弱り出し、11月下旬ごろからお腹が痛いと言い出した。胃を少し前に調べてもらったが、かかりつけのお医者さんは「92歳とは思えないほどキレイです」と言っていた。

そう、祖母は、胃とか腸は元気なのだ。食べるのが大好きで、今も私よりたくさん食べる。神様が、そのへんは気をつかってくれたのかもしれない。

が、肝臓だったか。


母の電話を切ったあとに、やっぱりちょっと泣いた。

泣いたけど、

「かなしい」のかと言われると、違うような気がする。

だって、おばあちゃんは、常に

「私は天寿をまっとうしたし、みゆきを育てられたし、みゆきが成功してくれるのが一番の喜びだし、ここまで長く生きて来られてね、もうね、感謝しかないのよ。とっても幸せなのよ、だからね、いつ死んでもいいのよ」

と繰り返し繰り返し言っていたのだ。

本人がもういいと言っている。それが本心だと分かっているから、「死」自体が悲しいのではない。

これが元気ぴんぴんの人間で、突然「ハイ明日死にます」と言われたら「ギャー」となるだろうが、祖母に関しては、そういう感じではない。

祖母は92年もすでに生きている。92年かあ。長いなあ。

そういえば人の死って、なんで悲しいんだろう。そもそも。

うちの家系はだいだい脳卒中家系で、親戚の高齢者はみんな、スコーンと軽やかに死んでいるので、こういう気持ちに今までなったことがなかった。

今の心境は、すごく平坦で、でも、ときどきぼこぼこした地面を2つ車輪の着いた車でとろとろ走ってるみたいだ。終わりも無いし、起伏も無い。

でもときどき、さびしさだけが沸き上がってくる。

で、今思うのは、これからおばあちゃんが幸せな最後を迎えるために、なにをしてあげたらいいんだろう?ということだ。

どうしたら、おばあちゃんが最後まで幸せでいられるんだろう。こういう発想でモノを考えたことがなかった。幸福は常に通過地点にあるもので、先にある幸福を思い浮かべて、逆算して考えたことが、今までなかった。不思議な感覚だ。

それを考える余裕があってよかったと思う。取り乱して、悲嘆にくれなくていい。

電話で母に「で、おばあちゃん余命何ヶ月なの?」と聞くと、母はちょっと困ったように「そんなの、聞けないじゃない……」と言っていた。

聞けない、ものなのか。私だったら、お医者さんに齧りついてでも教えてもらうと思う。だって、知らなかったら、何ができるかわからないじゃん。

ひとつ、よかったなと思うのは、今年の9月に西荻窪の「旅の本屋のまど」で、著書「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み食べ歩く800キロ」の刊行記念にトークイベントをした時に、祖母が最前列で見に来てくれたことだ。

92歳の高齢ながら、2時間も座って話を聞いてくれたし、とてもとても喜んでくれた。実家のすぐ近くの西荻窪でなかったら、体力的に、来られなかったかもしれない。旅の本屋のまどさんありがとう。

そう、こういうのが、なんとなく今の気持ちを支えてくれているような気がする。

「かなしい」よりも、「よかった」のほうが、せめぎあって強いから、あんまり「かなしい」と思わずに済んでいるのかもしれない。

少し落ち着いてから、祖母に電話をした。

祖母はいつもどおりだった。

いつもどおりのおっとりした口調で

「もうね、十分生きたからね、東京に出て来て美由紀を育てられてよかったからね、もうね、幸せなのよ、だからいいのよ」と言った。

今朝も、かぼちゃのスープと、パンと、めかぶと、卵料理とベーコンを食べたらしい。

「今日、美容院に行って髪を染めてもらおうと思ったけど、食べ過ぎて胃が重いから明日にするわ」

といつも通りのことを言っていた。そんなに食うのか、と思ったが、それでよかった。

高知に行くの、と言ったら「飛行機で行くのよね?」と言われたので「うん」と言った。「高速バスで行く」とホントのことを言ったら絶対に心配するからだ。

「おばあちゃんね、今やっぱり思うのがね、家族ってありがたいなあと思うのよ。だからね、これからはね、おかあさんとあなたと2人になるんだからね、2人仲良くしないとだめよ、これまでのこといろいろあったけど、許してあげて、お母さんを支えてあげてね、おかあさんにもね、美由紀に優しくするよう言って聞かしておくからね」

この期におよんで、祖母は自分以外のことを心配している。これが祖母なのだ。

わかってるよ、だいじょうぶだよ、と言ったら、嬉しそうにしていた。

最後に「私、これからできるだけ実家帰るからね」というと、祖母は

「いやー、なにいってるの、帰って来てもおばあちゃんなんにもあなたの世話してあげられないから悪いわよ」

と謎の発言をした。

おばあちゃん、私もう30なんだよ。



ありがとうございます。