「ブス」という言葉の当事者は
山崎ナオコーラさんの新作エッセイ「ブスの自信の持ち方」(誠文堂新光社)刊行を記念して、ご本人にお話を伺った。
デビュー作「人のセックスを笑うな」の頃から、ご著書は全部読ませていただいているのでとても嬉しい。
《前編》
「私、ブスだから」と気軽に言えない日本社会の「容姿差別」について
"エッセイで「ブス」についてちらりと書くと、思った以上に反響が返ってきて。他の人も同じ悩みを抱えているのだなと分かったんです。世間におけるブスの扱われ方がおかしい、という違和感を多くの人が持っている。ということは、ここに文学の仕事があるんじゃないかなと考え、いつか「ブス」についての本を直球で出したいと思うようになりました"
「ブスの自信の持ち方」は、容姿差別を切り口としているけれど、章が進むにつれ、単なる美醜の話ではなく、ジェンダーの非対称性や、痴漢の話、男性のルッキズム、おじさん差別など、世の中に根付く様々な偏見にまで話題を広げて語られていて、とても興味深い。
女性だけじゃなく、老若男女におすすめの1冊である。
山崎さんはインタビューの中で、現代における「ブス」と言う言葉の使われ方について、
「差別する側が発するのは良くて、差別されるブスの当事者が発すると『そんなこと言っちゃダメだ』と言われたり、『気の持ちよう』となだめられたりするのはおかしい。もっとブスと言う言葉をフラットに使えるようになったら良いのではないか」
とおっしゃっていた。
蔑称であるブスという言葉を、男性からの価値観の押し付けとしてとらえるのではなく、自分自身のものとして捉えて、使いこなしたい、ブス本人がブスという言葉をフラットに使ってもいい、と。
確かに「言葉を禁止する」だけでは差別感情が消えるわけではないのだから、むしろ言葉の意味性を変えてしまうことで、差別に対抗してゆく、という手段もあると思う。例えば「障害」という言葉を禁止したところで差別が無くなったり、障害者が生きやすい社会になるわけじゃないのだから、それであればよりフラットに障害について議論できる社会になった方が健全だし、障害を当たり前のことだとした方が、差別という現象自体は薄まる。
しかし。
私はインタビューしながら思った。
ブスという言葉の当事者は、果たして本当にブス本人だけなのだろうか。
私は中学2年の時、クラスのMくんという前の席の男の子から1日に100回くらい
「ブス」と言われ続けた。
プリントを回すときにも「ブス」、朝、登校して来て目があったら「ブス」、休み時間にも「ブス」、
とにかく何かにつけてブスブスブスと彼は私に言い続けた。
今写真を見返してみても、全然、ブスの要素なんかどこにも見当たらない。けど、多感な中学生の女子が、そんな環境の中で自分を客観的に見続けることはどう頑張っても難しい。
おかげで私は19歳まで人の目を見て話すことができなくなった。
告白されても「どうせいじめの一環だろ」と思って全部断っていた。
同時に「デブ」とも呼ばれていたので高校3年まで摂食障害で、1日にパン1個しか食べなかった。
(当時の体重は162センチで49キロだったので、どう考えてもデブではないのだけど……)よくそんな体でテニスなんかやってたと思う。ほとんど執念というか意地だった。
その後、なんとか男性恐怖症を克服したくて19歳で六本木のキャバクラで働き始め、容姿はいまいちなのにものすごくモテる先輩のお姉さんや、逆に美人だけど全然人気の出ないキャストの女の子などをたくさん見るうちに
「人から好かれるかどうかは、容姿と関係ないんだ、全部内面の問題なんだ」
という天啓を得てコンプレックスを克服したが、じゃあ、その経験がそもそも必要だったか?というと、ブスブスブスと言われる事さえなければ、別に特段必要のないものだったと思う。
彼の言葉のおかげで私は辛い10代を過ごしたし、今から考えてもあれはいじめだ。
しかし、その話をすると10人中9人は「その男子は小野さんのことが好きだったんだよ」という。
もう、ぜんっぜん、そういうことじゃない。
「好き」だからと言って人を摂食障害に追い込んでいいわけがない。
危害を加えているという意味では、好きだからと言って相手を滅多刺しにするストーカーと全く変わらない。
本人に今聞いたら「ただのいじりじゃん」と言うかもしれないが、些細な刺し傷だって積り積れば出血死に至るのだ。
で、何が言いたいかというと、私は「ブス」という言葉は、決してブス本人だけを傷つける言葉ではないと思う。
SNSなんかでもアイドルや女優さんのアカウントに対し「ブス」だのなんだのと書き込んでいる人を多く見かける。全くブスという言葉に縁のない人にまで、この言葉が投げかけられている。
人生で、一回も「ブス」と言われたことのない女性なんていないんじゃないかってぐらい、この言葉は「誰にでも使える」「普遍的な」蔑称として現代社会で機能している。
「ちやほやされてるなら、ブスって言われたからって気にしないだろ」と思う人もいるかもしれないが、普段周りから美人、美人と言われている人間だからと言って、「ブスと言われても平気」なわけでは全くない。ブスでも美人でも、刺し傷の痛みは変わらないのだ。
「ブス」という単語の当事者は、本物のブスだけではなく女性全体である。
山崎さんは「ブスという言葉は障害者という言葉と同じだから、口にしてはいけない言葉にはしないほうがいい」と仰っていたけど、障害があるかどうかは事実として判断できるが、「ブス」の基準は人によって様々だ。ある人がブスだと思う人を、別の人はブスだと思わないということも多い。審美的な基準は一律ではないからこそ、差別や罵倒に安易に使われてしまう。
また、障害者本人に「あなたは障害者ですね」と言ってもそれは罵倒にならないが(もちろん文脈と言い方にもよるけど)、障害のない人間に「あなたは障害者ですね」と言ったら、それは罵倒になる。
同様に、ブスじゃない人間に「ブスですね」と言っても、それは罵倒の意味でしか使われない。
というわけで、私はブスという言葉はやっぱり、どこでも使うべきではないし、テレビなんかでも即廃止にしたほうがいいと思うし、時代とともに使用禁止になる差別語の一種だなと思うけど、山崎さんはもっと気軽に使ってもいい言葉だと考えておられ、私にはそれが新鮮だった。
また、容姿の価値が下がればいい、というお話もすごく納得した。
上記のようないじめや暴力が起きるのは、「容姿について攻撃することで相手の自尊心を根こそぎ奪えるくらいに、容姿に価値の置かれた社会である」ことがそもそもの根本原因でもあるので。
これまでの日本における美の基準は「色が白くて目が大きくて鼻が高くて、二重で、顔がちっちゃくて…」みたいに絶対的な一つの価値観に縛られていたと思うが、しかし、これからますます移民の数が増えて、国籍や文化的バックグラウンドに関係なく人の入り乱れる時代になってくれば、美の基準は一定じゃなくなるだろうし、また容姿に関係無く稼ぐ女性が増えれば、「容姿の価値」も自然と下がってくるだろうと思う。
早くそうなって欲しい。
いずれにせよ、差別に対抗する手段は「無いことにする」「禁止にする」以外にもあるのだ、と山崎さんは提示していて(私は"お気持ち"優先派なので絶対無くした方がいいじゃん!と安易に思ってしまうけど)、かつ、これまで当たり前のように多くの人が使い、そして「使う方が悪い」と誰も言い出さなかったブスという言葉自体に疑問を持ち、社会に問題提起するという意味では、社会の潮目を感じる一冊だと感じた。
それはそうと、その、私に対してブス、ブスと言い続けた彼については、次の同窓会のスピーチで精神的にメッタ刺しにしてやろうと思っている。
どれだけ顔の価値がフラットになろうと、「ブス」という言葉の意味が変わろうと、女のプライドを傷つけた男がタダで済むわけがないのである。
20年経って、逃げ切れたと思うなよ。
ありがとうございます。