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そこらへんに味方がいる、と感じられる社会になること、あるいは「バイ・スタンダー」という考え方について

村上春樹みたいなタイトリングで突然すみません。

現代ビジネスに「見知らぬ金髪男性から「単なるモノ」として見られた私の絶望感」という記事が載り、おかげさまで非常に多くの人(計50万PV以上)に読まれて大変ありがたいのですが、その時にいただいたコメントの中に
「お店のお兄さんだって酔っ払いに立ち向かうのは怖いのに、男だからって理由で助けを求めるのはおかしい」
というものがありました。


これは私に取っては予想外の出来事で、「そういう感覚の人もいるんだ!」ととても興味深く感じました。

というのも、私がそのお兄さんになにがしかの行動を期待したのは、そもそもの前提として
「場をホールドする人間が(男女関係なく)その場の治安や安全性を率先して担保するのは当然である」という感覚があったからです。

私はクリエイティブ・ライティングのWSを定期的に主催しているのですが、その場におけるホルダーは私です。

その経験から言っても「場の空気を変えたり、トラブルを収められるのは最終的には場のホルダーだけ(もしくは一番の影響力を持っている)」ということを身に沁みて知っています。

ある閉鎖された空間の中で、予想外の出来事が起きた時、場の参加者はまずホルダーに助けを求めるし、ホルダーはそれを解決する義務がある。人々がお金を払ってその場にいるのであればなおさらです。

同時に、その場で一番権力を発揮するのがホルダーであり、それはカフェであっても、居酒屋であっても変わりません。

(逆に、その場のいち参加者が自力でトラブルを解決したり、空気を変えるのはかなり難しい。)

私はWS参加者の安全を担保しているし、それは男女関係なく、ごく当然のことです。

だから、あの時私がカウンターのお兄さんに助けて欲しかったのは、男だからではありません。もし、カウンターにいたのが女性のバーテンダーであっても私は助けを求めたと思います。(ついでに言うと、彼はホステルのオーナーでもありました。そこは渋谷駅から徒歩圏内の場所で、あらゆる人種・国籍・年代の人々が集うホステルでした。だからこそ、私は彼にその場にいるどの属性の人々でも安全に過ごせるよう、振る舞って欲しかったのかもしれません)

酔っ払いが怖いと言う気持ちももちろん理解できます。けれど、実際に助けになるかどうかはともかくとして、せめて通い慣れた多様性のある場で、その場の主催者である彼には自分の味方でいて欲しかった。それは「守って欲しかった」というよりは、場のホルダーにはあらゆる差別的な振る舞いに敏感であって欲しかった、と言う(個人的な)希望です。

ハラスメント・差別の抑止力になる「バイスタンダー」

と、そんなことを考えていたところ、長年の友人であり、大学院でジェンダー論を専攻する友人である濱田まりさんが「バイ・スタンダー」と言う考え方を教えてくれました。

バイ・スタンダーというのは、直訳すると「傍観者」であり、狭義では「救急の現場に居合わせた人のこと」。

応急処置をしたり、心肺蘇生をしたりと救助に携わった第三者のことを医療用語でそう呼ぶそうですが、転じて「DVやレイプ、ハラスメントもしくは差別が起きた時、その現場に居合わせた第三者のこと」という意味で、アメリカのジェンダーや差別研究者の間では使われているのだそうです。

定義については、『ジェンダー論を掴む』(有斐閣) という本に詳しく書かれています。

バイスタンダーとは、デートDVまたはストリートハラスメントが起きようとした時、加害者もしくは被害者と同時に居合わせた人たちのことである。アメリカの性暴力防止プログラムでは、事件が起きたときに、このバイスタンダーの役割が重要視されている。」(本書より)

“アメリカの差別防止団体では、このバイスタンダーを社会に増やすべく育成プログラムなどを行っている” とはままりさんからのメールには書いてありました。

私は彼女から教えてもらうまで、ストリートハラスメントという言葉も、また同時に、DVやハラスメントが「起きようとした時(完全に起こりきったあとではなく)」でさえもこの言葉が有効である、ということも知りませんでした。

と同時に、「ああ、つまり私があの場でホステルのお兄さんに求めていたことはこう言うことだったのか」と合点がいきました。


よくSNSでシェアされてくる海外ニュースの動画などで、電車内や店で差別を目撃した第三者が、当事者に変わって抗議するシーンなどをよく見かけますよね。


欧米でこう言った振る舞いをできる人が多いのは、社会の成員が互いに互いのバイ・スタンダーであるという意識があり、誰かに助けを求めても良い、という前提のある社会だからではないでしょうか。彼らには移民や差別の問題と根強く戦ってきた歴史があるからこそ、この考え方が非言語レベルで人々に浸透しているのかもしれません。

振り返って、日本の社会においてそういった意識はまだまだ持ちにくい。特に、街中や見知らぬ人たちの中で、とりわけ弱者とされる人々(ベビーカーを押しているお母さん、ハンディキャップのある人、言葉の分からない外国人、子供、女性……その他、色々)がトラブルにあった時に第三者に助けを求めるのは、かなり勇気がいることです。

こういった事例を見聞きした時、私は日本の差別問題を取り巻く「空気」についてよく考えます。

最近、女の物書き同士でご飯を食べた時、幾人かの女性が「SNSで主語の大きい怒りを表明する人、簡単にいうと、何かに対して被害を訴えたり、変えようと主張する人があまりに多くて嫌になる」という趣旨の意見を言っていました。

例えば #Me too運動のことや、最近LOFTの広告を「女性に対する偏見や差別を助長する」としてSNSで抗議をする女性たちがたくさんいたこと、それを受けて企業が広告を取り下げた、という出来事について、

「自分たちの傷つきや被害を、個人的な感情のみで訴えるのはおかしい」と彼女たちは言っていたのです。

しかし私はそれを聞いた時、

“現実でハラスメントにあったときに、Noと言ったり、またNoと言う時に味方がいると感じられない人が多いからこそ、ネット上での怒りに変わるのでは?”

と感じました。

また、それは普段、差別されるような社会的弱者だけではありません。

私の記事に「自分は立ち向かえないくせに、男には守って欲しいなんて甘い」「助けを求めるな」というコメントした人々。実は彼らこそが「困った時に、見知らぬ人に助けを求めてはいけない(なぜならそれが得られる見込みは少ないから)」と思い込んでいるのではないでしょうか。
何かのトラブルがあったときに、周囲に自分の味方であることを求めたり、助け(直接的でなくとも、間接的・心理的にも)を求めることは、人間として当然の権利であるにもかかわらず。

困ったときに誰にも助けを求めてはいけない、そんな社会観をメンバーに与えるって、なんだか、いやな社会だなあ、と思わざるを得ません。

男だろうが、女だろうが、どんな性別だろうが、差別や暴力を受けたとき、相手の性別を問わずに助けを求められるのが一番健全な社会なのではないでしょうか。

この「バイ・スタンダー」という考えがもっと広まればいい、と私は思います。誰かは誰かのバイ・スタンダーでありえるし、「わたし」も誰かのバイ・スタンダーであり得る。直接に何かをしなくても、私はあなたの味方であると示してくれる人がいるだけで、被害や差別、暴力を受けている人間の、どれだけ心理的な支えになることか。

きっとこれから先、一層様々な背景を持つ人々が交差する社会になる中で、こういった意識を持つことはますます求められるだろうし、さらにはこういった意識を持つ場こそ、人の集まる場所になると私は考えます。バー、レストラン、カフェ、その他色々な場所で、どんな背景の人であっても安心・安全に過ごせるということがますます求められるでしょうし、何かトラブルがあった時に、そういった意識のあるホルダーとそうでないホルダーでは、全く対応が変わってくるはずです。

緩やかなバイ・スタンダー同士のつながりが、安心して暮らせる社会を作る礎になる。

「スタンド・バイ・ミー」と簡単に言えるようになること、まずは自分から言うこと、またそういった発言を誰かが封じないことが、健やかな社会の始まりではないか。

私があのコラムで伝えたかったことは、男性嫌悪でも、被害者ぶりたかったわけでもなく、そのことだったのだなあと、この「バイスタンダー」という言葉を知って初めて気がつきました。

ありがとう。はままりちゃん。そして、私もあの経験を通じて、誰かのバイ・スタンダーでありたいと強く思うようになりました。

みなさんは、誰にとってのバイ・スタンダーでありたいですか?

ありがとうございます。