作文9

『上手く書けたと思ったら2ヶ月後には全然ダメ』現象について

だ、だ、だ、だ、だめだぁぁぁ。

なにがだめかというと、去年一年かけて書いた長編の原稿のこと。

書きあがった時には「よし!がんばって良いものが書けたぞ!」という自負心があったのだが、改稿するために今読み返してみると全然だめで、よくこんなものを編集者さんに出したなあ、と顔から火が出る思い。

過去のダメな原稿を読み返した時の、この「うわー」という感じ、『救心』が必要になりそうな、心臓がキュッとなる感じは、何回味わっても慣れるものではない。

この「書けたと思ったら全然だめ現象」を、私はこれまでの人生で何百回も味わっている。それが起きるまでの”原稿の寝かせ期間”も大体決まっていて、自分の場合は2ヶ月間ぐらい。

ちょうど恋をして、盛り上がって、付き合い始めて、最初の頃は良いけれど、だんだん冷静になり、相手の欠点が見えてくるのと同じくらいの時間の長さですね。原稿を書いているときには情熱をみなぎらせているものだから、書き上がったときには達成感でいっぱいだけど、時間とともにアラや不足や矛盾点がボロボロ見えてくる。


難しいのは、同様に「やっぱりダメだと思ってたら、あんがいいいじゃん!現象」もある、ということ。

2ヶ月後に見て、うわー、全然だめだ、全部捨てよう、と思って一旦全部ボツにしたにもかかわらず、3ヶ月経つ頃にもう一度見返した時には「あれ、あの時は全然だめだと思っていたけれど、今読み返すとそんなに言うほどダメじゃなくね?」と、なることもしょっちゅうある。

その頃には時すでに遅し。書き直した原稿を提出してしまっているか、もしくはその原稿の「旬」は過ぎ去っていて、発表するにはちょうどいいタイミングを逃しているのだ。

だから本当の理想を言うと、すべての原稿を3ヶ月ほど寝かせてから改めて見直し、最終稿を完成させたいのだけれど、残念ながら現実の締め切りはそこまでは待ってくれない。「やっぱりダメだぁ、書き直そう」と必死で直し、「果たしてこれでいいのかな?」と自信のないまま提出するか、「うん、ここまで直せばそんなには悪くないだろう、自分はやれるだけやった」と自分を納得させた段階で出すことになる。

そう思っていたら、昨日訪ねたBar Bossaの林さんに、

「とある美大の実験で、『一生に一度の名作を作ってください』と言って制作させた学生のループと、『クオリティは多少、難ありでもいいから、とにかくたくさん作ってください』と言って作らせたグループでは、最終的に後者の方が優れた作品を作ることが多いんだそうですよ」と教えられた。

だから、自分としては多少ダメだなあと思うものでも、なんでもいいから世に出した方がいい、そっちの方が技術の上達につながるのだそうだ。

うーむ。そうなのか。

しかし「自分が求める”完成”に向けて、ああだこうだ、頭を悩ますのがスキ」という人間にとっては「アラがあっても途中で出来たものを出す」という行為は、お腹が痛くなるほど苦しい行為である。まるで遊んでいる途中で自分のおもちゃが取り上げられたような物足りなさだ。そういう人間にとっては「出来上がった作品が良いものかどうか」より「自分が納得できること」が何より重要なので、そこを覆すことが「書く幸せ」を根こそぎ奪ってしまう可能性もあり、そうなると本末転倒、でもその一方、自分の主観ほどあてにならないものはなく、自分が「ダメ」でも他人が「いい!」と言うことなんて、世の中にはゴマンとあるわけで……。

どちらがいいのかは、出来上がった作品に問うしかない。


しかし、この「全然ダメ→やっぱりいいじゃん!」のサイクル、作品を作れば作るほど、どうやら短くなってくるものらしい。

例えば単行本1冊分くらいの原稿の場合、デビューしたての頃は『半年経って全然だめ→1年後にはいいじゃん!』だったのが、最近では『2ヶ月後に全然だめ→3ヶ月後にはいいじゃん!』となってきている。もちろん、4ヶ月後には「あれ、やっぱり全然ダメじゃん」となっている場合もあるのだけど、この、凹みと立ち直りのサイクルが、書けば書くほどどんどん短くなっている気がする。

冷静と情熱の間を、できるだけ短い時間のうちに行ったり来たりできるようになること、それが「プロの条件」であれば、自分も少しはそのスパンの短縮を指して、成長している、と言えるの、かなぁ……。

長編小説1冊分の原稿がすらすらと書けるようになるまでに、私はあと何回この「ウワーーーーー!全然ダメだ!」と「案外、いいじゃん」を繰り返すのだろう。

人間、赤面と立ち直りを繰り返しながら、物事を上達してゆくのだろうと思う。







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